ゼフィランサス カリナタ  東京・恵比寿の自宅にて  2008.6.27 幸せの生き方    
 
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知識
 
八島義郎 作・演出 歌唱劇「撫子」「猫柳」台本  昭和57年(1982年)春季・夏季・秋季歌唱劇パンフレット 山本幹雄「現代のカリスマ」  岡本好司「「こころ」と「からだ」」  宮武孝明「八島義郎先生説話抄」  八島ノート 昭和57年 竹内康正 筆録 八島義郎の言葉  Yashima Notes 1982 The Words of Yoshiro Yashima written by Yasumasa Takeuchi
八島義郎 作・演出 歌唱劇「撫子」「猫柳」
昭和57年 春期・夏期・秋期 歌唱劇
現代のカリスマ」 山本幹雄
「こころ」と「からだ」」 岡本好司
八島義郎先生説話抄」 宮武孝明

八島ノート 昭和57年
  1982年  

春期 開幕之詞
夏期 独覚
両親に感謝していますか
秋期 思うるにその身亡びても
崇神の神詞
 
         
   
         

 

 

1982.5

昭和57年 春期歌唱劇「撫子」





 
 
 
 
 

 





























 


































































 

 

 

 

八島義郎 作・演出 歌唱劇「撫子」

 

 第一場 樵の家(昭和34年頃の夏の夜)

岳一 しらねえかどうかわかんねえけど なんでみんなを描きたがるだね、前々からそれが知りたかったんだあ。

洋三 あゝその事ですか。ぼくも以前そう思った時もあったのですよ。人間が一番美しいと思うもの、人間の理想の憧れの、その極を求めたのですね。山でしょうか、海でしょうか、花ですか、動物ですか。そのどれもが最後は人間にかなわない。美しさ、曲線、肉合、肌、どこをとっても人間に勝るものは無い。

 そして真理の当体とした神仏迄人間の姿とし、肉体の美しさを求めたあげくが、あのギリシャの写実を超えた素晴らしいものを生んだんでしょう。ミロのブイナスもその一つ。ローマもそれを学んだ。いや世界がその後に続いたのでしょう。

 結局は人間が人間の心の世界に求めたからでしょう。人間が中心だから、一番よいものは人間で、男と女とで、顔だ、姿だ、声だ、肌色だ等々云うので、犬だったら犬を選び、猿は猿を最も美しいと思い、鳥には鳥の世界がある、という事でしょう。それが自然ですものね。心に迫って来るものは赤裸な美しい人間そのものなのですね。

岳一 そんなことかい・・・。そういいやあ時に山で会う訓練士さんが犬にも好き嫌いがあって、人間が見て規めたどんな立派な犬でも嫌われ、雑種の見るからに変てこな奴が好かれたり、犬には犬か!!!!わかったような気がするぞ。着替える事にするべえか。

 

よしえ 今晩はあなたがなぜ絵画きになったのか聞かせてほしいのよ。

洋三 長くなりそうだなあ。

よしえ あなたお医者さんの息子だって云っていたでしょ。

洋三 ぼくは幼い時から自分で気付かずに、その時の気分を何かで現わしたくて仕方がなかった。ある時は泥土で、ある時はクレパスで、ある時は細工物で・・・常に何か求めて・・・それも自分の手で、自分のものを!と訳もわからないある感情が私をかり立てた。ただ訳もなく何か掴めないものをつかもうとして、いいかえれば池に写った月影を手にとろうとした、そんなものだったろうか・・・。

よしえ もっと続けて・・・

洋三 生長するに従って私は親の希望する医学には全く関心を持たなくなって行った。絵を、彫刻を、様々な工芸品、建造物、そんなものに一層深入りし、むさぼる様に素晴らしきパイオニヤ達の残したものに傾倒していった。

 身近から始まって手当り次第だった。日本画も洋画も木彫、石彫、金彫も、漆芸も、カント美学も勉強した。ゴッホ、ピカソ、マチス、ミケランジェロ、マイヨール、ロダン、ブルーデル。日本では景年、松園、契月、竹田、鉄斎、大観、芳崖・・・。清輝、西望、遡っては、康慶、運慶、湛慶、快慶・・・狩野派、四條派・・・何が何だかわからぬまゝに日々を過していたんだよ。でもどうにか少し掴めて来たみたいなんだ。

 でも悲しい事に無名作家は喰う為に、売絵のペンキ画や広告屋、看板屋の手伝いや時には似顔を描いたりしながら今に立派なものを残してやるぞ、と思い乍ら・・・私が望んだのは風景で、雄大で神聖な領域だったんだ。

 

 第三場 撫子峠

よしえ あなた、将来きっと大家になるわよ。ねえ。

洋三 そう思って頑張るよ。でも話した通り、似顔なんか描いて喰いつないで、やっと今度の様なことで絵具もなくなるし、最後迄描き上げる余裕もなくてさ。

よしえ 今はそうでも、今にきっと大家になるわよ。私そう信じるの・・・

洋三 そうだ、君! ここが丁度よい、掛け給え。

  と平らな台場によしえを坐らせる

洋三 今日の記念に描き残すんだ。

よしえ いいわ、私の気持迄描いといて。

  洋三は、よしえにポーズを取らせながら傍に咲く撫子を一輪手折って、よしえの頭髪に差し、更に二・三輪手折ってよしえに持たすと、よしえはそれを胸に押しつける様にして持つ。洋三はスケッチブックを開いてコンテを取ると描き始める。

二人は時々瞳を合せると微笑を交す。辺りに鳥の声。

 

 

 

 

1982.8

昭和57年 夏期歌唱劇「猫柳」

 

 


























































































 

 

八島義郎 作・演出 歌唱劇「猫柳」

 

 第三場 回想 曽根の家

 静子は曽根家の末子で短大を出たばかりの評判の美人だった。さて曽根家には昔から種々な商人、お茶お華の先生、職人達そんな多くの人々が出入りしていた。

 達雄が遊びにやってくると、まだ高校生だった静子が何だかんだ言いながらよく顔を出したものだった。静子は達雄に好意的であったし、達雄も又静子が好きだった。二人の瞳の中には当人同士しかわからないある感情のうけわたしがあったのだ。

 

 第四場 幕前 阪急梅田駅

 達雄はかつて静子がくれた折鶴やレースの花瓶敷を今でも大切に持っていて、達雄の男心に静子の女心がなんだか掴みようがない、なんとも妙なくすぐったいような、そういったものを感じさせたものだったが、達雄は今でもそれらを見ていると、静子の心が暖かい陽ざしの様に伝わってくるような気がするのであった。

そして・・・心ときめく今日は約束の木曜日。

 

 第七場 六甲山の山頂

静子 私ね、前々からあなたのことが好きやったの、ほんまなのよ。でもね、私この秋、結婚することになったの。ずいぶん前やけどまだ高校時代にあなたが私のこと聞いてたって兄から聞いた時、私うれしかったわ。

これが本当に人を想う気持ちやわと気がついた時には遅かったの。それに私のとこ旧弊なんですの。親にそむくことも出来ないし私一人で生きていく力もないし、仕方ないの。

 六甲山は春姿

弁士(OFF) 和服の静子を抱いた時、彼は帯の固さと案外の重さにぐっと力を入れたのだった。ふっと香るジャスミン。彼女の好みか・・・そして耳許にかかった熱い吐息が悩ましく胸に迫る。その時、鶯の高音。二人の心から一生涯消え去る事はないであろう。幕下る。

 

 第八場 幕前
 六甲山から神戸へ そして別れ

静子 もう二人だけでお話する時もないと思うと悲しいわ。でも忘れないでね、お元気でね。

 浄正橋の日暮刻

弁士(OFF) 達雄は皆が目を見張るそんな美しい人が自分を愛していてくれる、そう思うと今更の様に「ふうー」と大きな溜息をついた。梅田から乗り換えだ。そして又乗換だ。香里園に戻る達雄の前に浄正橋の静子の立姿がつきまとう。そして思う。遂に一度の接吻もしなかった事を・・・良かったのか悪かったのか、しかし・・・なんとなく物足りない様な複雑な気持ちがして・・・

   

八島義郎  

 

Λ

 
 

Parents
両親に感謝していますか

竹内康正日記 八島義郎の言葉 昭和57年(1982年)9月22日 両親に感謝していますか  八島ノート 昭和57年 Yashima Notes 1982  竹内 康正 Yasumasa Takeuchi
竹内康正日記 昭和57年9月22日



 

 

 

1982.8.24

説明会: 神戸・御影山手
入会: 神戸・住吉山手 I邸

 

8.29

大阪・十三 初

 

9.1

八島義郎 68歳 竹内康正 16歳 初対面

 

 

9.8

当時の日記から
八島義郎先生説話抄」 宮武孝明編注

 

    会場でのお言葉

 

 自然のものは、すべてバランスをとっている。

 体質や性質が現在あるように、周囲も又、その様になってくる。最低の体質なら、環境もドン底。

 波風の少ない様にと無地、にぎやかに楽しくは総柄

 今の現像は自分が蒔いた種が原因だから、人に苦情をいってはいけない。いがみ合うのは、あわれである。

 人の和ほど大切なものはない。

 より幸せになるには生まれ変わらねばならぬ。これは決して生易しくない。常に努力しなければならない。

 感情から事情や体質を変えることは、不可能から可能を生み出す様なものです。

 同質は結集する。いい感情をもっていれば、いい感情のものが集まってくる。

 祖先、子孫、親類のどこにも、同じ性質が出現する。これが自然の流れである。

 生まれたままの感情でゆくなら、普通の人と同じことである。

 人体に感ずるわずかな変化や感覚異常は、すべて自然現象で、それぞれ意味がある。

 人は同質の結集の一部に、生まれたままの、当然の位地に位する。

 先祖からの悪い遺伝をとり去るには、会場を忘れないことです。

 結構になれば、はなやかになり、みじめになれば、ジジむさくなる。結構な人を見習いましょう。

 個人が結構になれば、教育も政治も不必要になるでしょう。

 

 

9.10

 

 一人では何もできないが、大勢だと、共に手をとり合って、幸せの道を進むことができます。

 は体温をもつ肉体があってこそ、そこに存在するのは本当です。

 活躍する人の顔は張りがあり、輝いている。これは生理的であり、自然現象です。

 「泣き面に蜂」のように、一つ悪くなれば次々と悪くなる。その反対の場合もある。これらは全部感情の持ち方一つにかかっている。

 体質が変わると、すべてのもののプラス、マイナスが体の感覚で分かるようになる。

 将来泣かない様に、今、努力して置きなさい。すべては、為した結果です。

 あまり理屈、理論に走らないように。それよりも、実行して、和をつくって、幸せになるのがいいのです。

 不思議とか、奇蹟等は一切認めません。すべては生まれたままの運命を持ち、自然の方法で表現されたものですから。

 私達の生涯は生まれた時から、いやいや、御先祖様から既に印刷済みである。

 吾人はそのプラス、マイナスを合わせた脚本通りに俳優となっているのです。

 生まれながら、結構な人がいる。その人を見ると、自然の条件を備えている。

 遺伝的、身体現象が発現せずに、そのまま通り過ぎてゆくのは、浄滅があるからです。

 死者の魂は子孫の肉体に存在して、隔世遺伝する。即ち、自分には先祖が宿っている。

 不幸な面だけを見ていれば、それだけで負け犬になる。これからは、そんなことは見ないようにしよう。苦労は買ってでもしろ、とは愚者の言葉です。その間に伸びる事です。

 やろうと思えばできることをしないで、将来に望みとして持つことも幸せの一つである。

 精神と肉体は同一の体に存在するので、肉体が亡んだ時には、精神は最も近い人に結集する。魂が結集する時に、人により発熱する事がある。

 感情をよくして、遺伝的感情をそのまま出さないようにしましょう。感情、事情、身情は一致する。

 感謝のないところに幸せはない。生きている限り、人間はどこかに感謝すべき対象物を持っているものだから、周囲を探してごらん。

 自分一人が結構になろうとしてはいけない。周囲の人々にも結構を分けてゆけば、自分も自然と、より結構になる。

 生まれつきのマイナスの因縁がプラスに変わる時は、そのマイナスの度合いの強い程、プラスの度合いも強い。

 霊感は皆、同じである筈。「お答え」が各人異なっているということは、「我」が存在することである。

 いわゆる、念力で物体を動かすことのできる人が会場にやってくると思う。その人は過去に罪を犯し、罰として物を持ち上げて下ろすことを許されなかった人の子孫である。

 霊感で表現される現象は、祖先の霊魂がそのまま、あるいは過去にあった事がそのまま出てくるのであって、事実で嘘はない。

 今日、現在を幸せに生きることが大切なのであって、どんな金も、地位も、名誉も死ねば何の役にも立たない。

 

 

9.22

 

    親子・学生

 

 両親に感謝していますか。

 両親に認められない者が、どうして外で認められましょう。

 可愛がる子程、将来遠ざかる。

 学生運動に走る者には親子関係のまずい人が多い。

 要は個人の改善です。試験は人間作りとは無関係です。

 スランプの時は、友達を作って、楽しんで勉強すること。

 身近に親がいない時、ゴマのすり様がない時は、その気持ちでいることが大切だ。

 先生を好きになり、親を好きになれば、自然と学校の成績はよくなる。

 特に学生時代には読書すべきだ。読めば何かが得られるし、次に読むべきものを選ぶこともできるようになる。

 いいことだけをほめると、悪いことは自然に消えてゆく。

 会場では特に青年に教えてはいないが、礼儀は自然と良くなる。青年の不作法は、その所属団体を考えさせられる問題である。

 親を見て、子供は自分の将来を知り、親は子供を見て、自分の為せる業を知れ。

 学生は、学校や成績には関係なく、勉強しなければならない。

 会場は大切な御子弟をあずかっているので、皆さんが幸せにいってもらいたい。

 一番身近な所に、一番難しいことがある。

 愛情に満たされるかどうかで、その子が将来伸びるかどうかが決まる。

 念を通わせるということは大切です。好きな学科が良く出来るということは、心が楽しく、心が通うからです。楽しい心が起こってくると、家庭は楽しく、勉強はできる様になる。

 進学や就職は情況が整うと自然と選択が定まってくる。親に立てつく子は浪人です。

 最初は親に反抗していても、誠成公倫会で教えられ、実行して、物事がうまくゆく様になると、こんどは親を有り難く思う様になる。

 親が好きになり、仲良くなれば、先生も好きになれるし、会社の上司ともうまくゆく。

 肉体は常に変化しているので、子供はたとえ兄弟でもそれぞれ違う。子供を見れば、受胎した時の親の状態を知ることも可能だ。

 

 

9.24

 

    会場でのお言葉 2

 

 浄滅。即ち、自己の感情から、不幸の心を消し、滅す。滅すとは、無くす事です。

 結構に生きて、楽に死ねることは最高ではありませんか。

 もの事の終わりは、次のことの始めです。

 地位、名誉、財産等は生きている間のことで、これらにこだわる人に限って、不平不満が多い。

 精神界に生きる人の眼は澄んでいて、きれい。生気は朗らかさの内にある。

 世の中は物質の世だから、美味しいものを食べ、美しく着飾る感情を満たされる人こそ幸せである。

 体に何らかの反応があっても、「我」が介在すると現象を判断することはできない。

 やっただけの結果は必ず出るものだ。まず三日以内に注目しましょう。

 ものに前後があるように、現象には表裏がある。よくわきまえて判断するように。

 人は他人に利用されるようにならねばならぬ。そうなることが幸せであろう。

 浄滅は一代限りである。次代の者が現われる事を、人々の為に、最も望んでいる。

 そこに念を集中すれば、会場に居るのと同じ状態になり得る。

 気持ちは何歳になっても変わらないけれども、体だけは老いてゆく。これがこわいなら、できるだけ若い人達の間に入りなさい。

 厳しいが、楽しんでやってゆくこと。遊びでも、真剣でも結果は同じ。マイナスになることは一切しないこと。

 いわゆる霊感現象を証明することは不可能かも知れないが、研究はしなければならない。

 会場で変わった分だけ、他の人の分も変えることができる。

 循環で、次の機会には同じことが起こる。若し悪いことなら、未然に防ぐ対策が立つ。

 先祖のなし得なかった事を、今の自分ができることは、先祖を上まわることで、先祖の遺伝から抜け出ることになる。これを浄滅という。

 祖先は自分自身のうちに存在し、目に入るもの、耳に入るものはすべて自分自身である。自身が結構になれば結構なことが目に入ってくる。

 僕のやり方には抜け道はない。すべてプラスかマイナスで判断するなどは誰もやれないのではないか。

 霊魂は空中に浮かんでは存在しない。只、脳波の交流時に瞬間的に遊離している様に見えることがある。

 思いつめたものは、たとえ架空のものであっても子孫に出てくるものである。

 瞬間的に眼前に浮かんだことは、祖先で同じことを経験したためである。

 現存するものの内に、過去の人のことが遺伝されているから、過去の人のことも写し出される。

 幽霊は己自身の内の祖先を認めるということであり、祖先の思った念、そのものである。

 幸せの感情を常に描いて、持ち続けることが大切です。

 日々、楽しくやってゆくことこそ一番大切なことです。中々難しいことですが。

 やればやっただけの結果が出る。プラスをやればプラスの結果、マイナスをやればマイナスの結果。即ち、現在の生き方如何によって結果が出る。

 この世は、生身の人間である故に楽しい。楽しんで仕事をすれば、必ず成功する。

 親に起こった事柄は、自分にも起こるから用心しなければならない。因縁事は中々助からないから、一生懸命努力すること。

 幸せの事実の前では、理論は空しい。

 

 

9.26

 

 事情と一致する感情を断ち切ると、事情はころりと変わる。自分自身が変えられなければ、事情は変えられない。

 三年六、七か月で一巡して、生命が延びる。

 心の拠り所、生き甲斐を感ずるところに、すべてが真剣に処理されてゆく。

 肉体と感情の関係は遺伝され、循環する。これは宇宙の輪廻と同じである。

 一家が明るくなるような人になれば、外でも、会社でも、そんな人になり得る。又、自分を粗末に扱えば、外では粗末に扱われる。

 自然界の異変は、人間社会の異変に先立って起こる。

 説明会をすると、先客万来となって、色々な面で自分が成長してゆく。自分のためにするのであって、色々な無駄がなくなる。

 三日坊主は三、四日で自然の循環が起こって、事態が変わることの「ことわざ」である。

 目的のない旅行をすれば、日常生活の上に意味のないことが起こる。やむを得ず実施すれば、仕事の上で無駄が出るという結果になる。

 「こだわり」をもたらすのが一般の宗教ですが、誠成公倫会はこれを取り去るようにします。

 人間の価値は、日々を如何にして生きているかで定まる。

 霊感現象は其の人の体質、因縁、感情、事情によって出るので、全く個性的なものです。

 此の世では、元へ戻せることは、何もない。同じことは、再び起こり得るが、変わるチャンスに変わらねば、いい時期をのがすことになる。

 神仏に、頼りがいがあるわけではない。すべて己にある。頼りになるのは自己の感情である。

 理解ができても、実行ができにくいところが、又、面白い所以である。何度も聞いているうちに、次第に、ものになる。

 人間は死に至るまで、楽しく働けるのが、最高の幸せではなかろうか。

 人は自我というものを持っている。これがあるために、他人を責める。これは自分がみじめになるだけだ。

 人を見る眼は必要です。これを養うためには努力しなければならない。

 生まれつき幸せな人をお手本にして、我々自身を改造しなければならない。この為には、生死の境をさまようだけの経験を、必要とするでしょう。

 自分一代で改善ができると、子、孫の時代には、いい生涯が送れるでしょう。

 何が幸せか、何が不幸かを判断できる程に体質を改善すべきでしょう。

 感謝の気持ちを生涯忘れてはいけない。人を責めてもなんにもならない。日常の言動にも性格が現われるものです。

 

 

9.28

 

 他人には勿論のこと、自分にも絶対に迷惑をかけないことが、幸せの生き方です。

 世には敵も味方も同数だけ存在する。そして、敵であることも縁である。

 人生の絶頂期を知ることは難しい。余程気をつけないと、下り坂になっていることを、知らない場合が多い。うぬぼれ、不満です。

 何事にも情熱を持って、命をかけられる人は幸せである。幸、不幸はその人次第だ。

 他人の気持ちを考え乍ら生きてゆける人が、最後には幸せになるでしょう。

 無我の境地になって初めて、他人の事情を写すことができる。己を捨てた分だけ、他人の心が入ってくることができる。

 やるだけやっておれば、安心して暮らせる。不幸を予期して、コツコツと実行してゆかねばならぬ。他人は当てにはならぬ。やれば、何事も勝手によくなってゆく。

 この世界は心の世界です。知ろうとしても分かる筈がない、と思いますよ。

 会場では顔の形を変えることはできないが、その状態は変わり得る。生活態度が個人の顔貌を変えるのと同じことです。

 自分の我の雑念を捨てると、他人の雑念が入ってくる。そして他人の雑念がとれる。

 心掛け一つでその人の運命が変わるが、言葉一つにも幸、不幸がついてくる。感情は言葉(詩)となるし、言葉は又、人を現わす。

 反省してみることは既に後退である。いいと思うことをやるところに前進がある。

 自然現象は、その時の事情、感情、気持ちが問題となって判断しなければならぬ。

 心の使い方一つで、顔は生き生きとして、生命力が強くなる。

 感情、身情、事情と移ってゆくから、よくなる条件を積み重ね、悪くなる条件を追い出すと、次第に顔はほころんでくる。

 

 

9.30

 

 過去のことは如何ともし難い。今日をいかに生きるかが問題である。感情、事情を一つ一つ変えてゆくところに進歩がある。

 我を離れ、無我になること。我は生きている証拠と考えればよい。

 刺激が強く、心に焼き付いたものは子孫に受け継がれる。

 肥満にこだわると、よけい肥満になる。肥満は不満からくる。生まれつきだから本人はわからない。

 先祖が経験したことを、全部受け継いで、吾々は生きている。

 思うまいと思ってはいけない。反対のことを考えること。

 祖先のいい繰り返しがくるように、悪い繰り返しは浄滅しましょう。

 幸せの心や真心というものは、理屈抜きで、こうすればあの人によいであろうと思うことは、我ですし、見返りを求めるなどは問題外です。ただ、してあげたいと思うだけの心です。

 社長は会場で座っている方が、より会社のためになる。

 孤独はマイナス、明朗はプラスです。

 自分が幸せの原動力であり、自分が中心である。人は一人では生きられないが、引っ張ってゆくのは自分一人である。

 物事はマイナスから始まってプラスに終わる。

 逆境のときの笑顔は難しい。けれどもこれで好転することもある。

 悪に強いものは善にも強い。

 すべてのものには循環がある。

 仕事は自分でつくるので、与えられるものではない。自ら求めて働くところに生きがいがある。

 善良と幸福とは無関係である。

 人間の世では、他人にいくら認められるかが、幸と不幸の分かれ目である。

 祖先に縁故のあるのが集まった。

 人の事情が移ると胸が痛む。手を当てると痛みが弱くなる。医者の「手当て」は有効である筈だ。男性なら右手、女性なら左手。

 反省や告白は必要ない。過去にこだわることはいけない。分かった時から新しく始めればいいのです。

 

 

10.2

 

 人の失敗を叱るよりも、叱らないで暮らす方が、より幸せである。

 世の中は一日一日と変わっていきます。それに合う様に考えも変わってゆくのが当然です。

 簡単なものほど複雑である。

 干支は全然影響がないとはいえない。暦もずれがあるし、自然界の影響がある。手相は現在の状態が出ているが、将来のことは判らないでしょう。

 同質であっても、性格は違います。自然界に、全く同じものは一つとして無い。

 自然界は相互作用のうちに新陳代謝を行なっている。

 結集は隔世遺伝であり、男性は女性に、女性は男性に結集するのが通例で、それ以外の場合もあります。

 結集する時は、発熱するとか、眠りこんでしまうとか、両者が同じ身体状態になる。

 恥ずかしく思うのも我の一つですし、くよくよ思うのも祖先から受け継いだものが、現在現われているのです。

 相手の感情が移ってくるので、できるだけ結構な人のことを考えて、悪いものには関わり合わないこと。

 生まれつき定められた道を歩むと、これは遺伝するが、因縁が消えると、これは子孫に遺伝しない。

 いわゆる、霊感現象には御先祖の因縁がある。

 頭では分かっていても、実行は中々難しいし、又そうなりきることも、直ぐというわけにはゆかない。度々繰り返しているうちに、習慣となって、自然と、できる様になる。そうなれば楽しくなる。

 僕のやり方は幸せになる最短距離で、簡単なことなのだが、実行は至難なので、生涯努力すべきである。

 とか予感等は、先祖の経験が子孫に遺伝して現われる現象です。

 自然現象は一定の周期をもって循環しているから、肉体の変化にも、経済の変動にも波がある。歴史が繰り返されるのも当然です。

 同質の人間関係は長く続くが、体質が変わってくると、その関係は切れる。

 いい感情の世界に住む人は、いい顔付きをしている。

 努力して自分の殻を破って質を変えねばいけない。それができるのはだけです。

 陽の当たる場所で活躍すべきです。日陰で働いても、効果は少ない。

 もの事をどんなに感ずるか、或いはどんなに考えるかによって幸せになるか、ならないかが決まってくる。

 可能性は自分に問うべきであり、「お答え」に問うべきではありません。

 精神は肉体にのみ存在し、フワフワと空間に単独で存在するものではない。

 肉体が滅びると精神は最も近い肉体に結集します。そして完全にその人のものとなります。

 人は心の拠り所が必要だし、結構な話を聞くことも必要です。これが会場です。

 自分の因縁や遺伝を知っても、ただそれだけのことである。それから抜け出さなければ何にもならない。

 必要と思ったものが自然に得られるようになるのが、浄滅の醍醐味である。

 どれだけ「我」を消せるかが、「すなお」になれる条件です。

 いわゆる、第一印象というものは、先祖に何かが関係していたのでしょうか。何かを感ずるということでしょう。

 物事はすべて相対的であるので、自然現象も、もう一方の意味を考えて、上手に利用すべきである。

 会場がなくても、心の問題だから、何処へ行っても、「幸」の道を忘れないように。

 自分を大改革しないで、生まれたままの素質でいっては、この現象は起こらない。

 同質化は一般会員の方にも同じように起こるので、教師にだけという特別なものではない。

 自分が幸せになるためには、周囲の縁のある人を幸せにすることから始めなさい。

 いいことも、悪いことも、すべて自分がその条件を作り出すのであるから、自分自身を変えなければ、いつまでも良くならない。

 自然現象は循環します。常に二度目を用心すること。

 現在が幸せであるように、若い時は若者の現在で、年寄りは老人の現在で、努力すること。

 説明会へ行くと、何か得る処があるものです。いいものだけを十分吸収して下さい。

 何事も出足が良ければいいものです。ですから、いい感情で最初に臨んで下さい。

 悪い事態を回避するには、用心するだけでは不可能です。体質改善以外に方法がない。

 新婚旅行の行く先決定には、その土地の歴史を知る必要がある。当時の先祖に何らかの関係ある感情が働くからである。

 結集する者も、される人物によりけりで浄滅の度合いによっては、いいものが結集することになる。

 自分を大切にすると結構になり、周囲も喜び、結構になる。

 人生、遊んで過ごせば、遊んだだけの結果しかでない。感情だけで連なる人はそれだけの関係しかない。

 予言は考えていない。現在の生き方が間違うと、結果も間違ってくる。

 説明会は「幸せ」を説くので、その結果は必ず起こってくる。

 他人には真心を持って処してゆかねばなりません。思ったらして上げるだけで、恩返しなどを求めてはいけません。そこには「我」が現われます。

 浄滅の醍醐味はなんとも言われないほど。死んでしまうのが勿体ないくらい。

 

 

10.4

 

    先生ご自身のこと

 

 僕は意志が非常に強く、自分で自分を変えてゆくし、オデキは自分で切る程です。

 男が料理をする時は、無駄な支出がある時期です。

 僕は生きるか死ぬかの時に、生きてゆくには「和」が必要であると悟った。

 僕は勉強は出来ない方だから、人一倍しつこく勉強する。

 僕は質問されて、返事に困ると、本を読んで調べる。この機会に読んだものは全部身につく。

 僕の生活の場は会場で、旅行などへ行く余裕はなかったが、ある年は暇ができたので、伊勢から甲斐に遊びに出かけた。

 僕の遊びは、これが表に出てくると、すべてが仕事になる。

 旅行が計画通りにいったのは、すべてが計画通りにゆくということで、私、個人がうまくゆけば、会場全体がうまくゆくということになる。

 僕と家内とは、意見に相違はありません。若しあれば、「三下り半」に印を押してもらいます。

 僕の力は自然であるので、体験で知ってもらう外に方法がない。

 僕の体はマイナスの条件をもったフィルターです。相手の苦しみを全部移して、僕の新陳代謝で消化し、不活性化し、消毒し、解毒して分解してしまう。それに従って、相手の苦しみがなくなり、楽になる。

 僕は、これでも毎朝、30~40kmを、時には60km以上も自転車で走っていますよ。

 僕は「あかつき」の君といわれた。実は「暁」にあらず「垢つき」のことで、事態が定まるまでは風呂に入らない時もありました。

 僕は結構な生き方はこれしかないと考え、その通りの生き方でやってきた。そして、間違っていないことがわかった。

 僕は幼稚なんでしょうネ、便利さを嫌ったり、造花をもらって喜んだり、家では童謡を歌っているんですよ。

 誠成公倫会は、日本だから起こってきた。僕は日本人だから、その縁故で人が集まる

 この因縁、歴史はいずれ研究者たちが説明してくれるでしょう。

 皆様と今、お逢いできるのは昔からの御縁があるからですよ。

 僕は真実しかお話しません。これも自然現象でしょうか。

 僕は浄化作用を持っているからこそ、僕の価値がある。

 代理や教師の人も僕があってこそ、価値があることを忘れてはいけない。

 僕の将来は約束されてはいるが、決して甘んじてはいない。

 皆さんは本当に可愛い。僕は失敗できません。僕と一体で幸せになりましょう。

 昭和三十年頃の毎日新聞に「将来の宗教について」の対談がある。結論はキリスト教と仏教の中間の様なものが、能勢の山から始まるとあった。当時僕は能勢の山にこもって制作していた。

 僕には、結集は無数にありますが、御守護と言われる立場の先祖は、四十八名あります。

 僕は体自体が、発信機になったり、受信機になったりすることができます。

 先祖からの縁故のある方々が集まる会場に出てこられることは楽しい限りです。ですから、僕は最初からの構想を是非実現したいのです。

 八島家の祖父は、上野寛永寺に立て籠もっている間に、喧嘩して二人の人を斬っています。父親も頑固一徹、正義派です。

 会場では友達が増えて、皆さんのお名前を覚えるのに忙しいです。

 僕の幼児期には、家へは教師が始終出入りしていましたよ。

 「お答え」は脳波の働きです。

 僕は、いわゆるオーラ現象については分かりません。何故、病気がよくなるのかも分かりません。御守護という言葉も会員の皆さんがつけた名称です。祖先のことです。

 誠成公倫会には全然意味のない人は来ません。皆さん御縁のある方です。その縁は、祖先が宮廷人であったり、それぞれしのぎを削ったような人々の縁です。

 人間は新陳代謝を行っている限り、会場では、居眠りしていても、体質改善は起こっています。けれども、遠隔地では雑念を捨てなければいけません。

 僕の父親は、会社から帰ると、着物に着変えて、机の前にきちんと座って新聞を読んでいました。こんな父親を憎んだこともありました。但し、親を慕う心は一時もなくしていません。又、唯一度とて、口答えした事はありません。これは今もその気持ちに変わりはありません。

 僕には、計画は不必要です。其の日、其の時の結果をみて、その通り進めば、間違いないという自信があります。

 僕は西洋の小説を大分、読みました。小説は色々な知識が得られるので、どんどん読むべきだと思います。

 僕の眼の前が開けてみえたのは、誰も、未だ踏み込んだことのない世界でした。

 僕は常に忙しくて、ゆっくりとは、中々できない。起きてから寝るまで働きずめです。

 僕は今後、中国人に生まれ、それから十三回生まれ変わって、インドで又、皆さんにお逢いできるでしょう。しかし、それは子孫です。

 僕の代理の者が、色々な所で、色々な人に好かれていると聞けば、僕も嬉しい。

 僕は美しいものを求めて止まぬ気持ちで、「のみ」をふるって彫刻をしたが、それが形を変えて、幸せを求めて止まぬようになった。

 昔、僕の行く場所には雨は降らないと言われた。雨の降るのは僕の責任じゃないのに。

 僕は夢だけ持って、世の中へ飛び出して、ガムシャラにやってきた。自分の健康とか、生命のことなんか考えたこともなかった。

 この集まりが寝屋川市の、公共的建物の内で持たれるようになることは、僕が能勢の山にいた時に予想した。

 予想、予見、予言ができるということは、祖先にそのような人が存在したことになる。

 僕の詩には必ず「夢」という語がある。常に夢を持たねばならぬ。僕は恐らく、歌をうたいながら死ぬでしょう。でもやはり、死は嫌ですね。

 彫刻は身を刻み、孤独になりますね。むしろ絵を描く方がいいと思いますよ。

 僕は‟ええ格好しい〟だから、ヨボヨボの姿を皆の前にさらすのは嫌です。

 僕は月の光で、拡大鏡で本を読んだ事があります。その時は薄氷の上に座っている様な気持ちでした。

 僕は昔、刀剣に興味を持ったことがあったが、これは親に反抗する気持ちの時でした。

 僕は能勢の山で、人間の心と体との関係、人の生きる道を悟りました。又、お経を読むと、その裏まで分かる様になりました。

 僕はお山に居た時に、我が家を訪れる人をその前日に大体知る様になりました。ある夜、欅の板縁や橘のある屋敷跡の夢を見ました。翌日「来い」という身体の反応があって、京都に出かけて、八条女院所領を発見し、夢と同じ屋敷跡を見た時には、びっくりしました。

 僕は自然と取り組んで勉強しました。理論でなく、真実を相手にしました。

 祖先にあった事は必ず出る。霊感現象にも自ら専門がある。僕は僕にあるだけのことは分かるが、僕にないものは分かりません。

 僕が相手のことが分かるようになったのは、長年の研究であって、もともとはなんにも分かりませんでした。能勢の山の中での勉強、経験、研鑽の賜ですよ。

 僕は嘘は言いません。ただ都合が悪いことは言わないで、黙っています。

 人間の性は善悪どちらでしょうか、とよく聞かれますが、僕の返事は「助平であることは確かなようです。」

 ネクタイ一本にも、その人、その時の感情が表われている。そしてそれからその人の社会的地位や状態も分かる。

 僕は気分的に楽しい時は詩を作ります。その時の精神年齢は十七歳で、最も危険な時代かも知れませんね。なんでも楽しむ気持ちを忘れないように。

 僕は心眼で作品を見るようになって、その作家の性格、人格を判断できるようになった。

 作品は年数だけでは売れない。すべて作家の感情による。感情が大衆にアピールして、初めて作品が売れることが分かりました。

 僕は、犬でも甘ったれられると、弱いので、出かける時は、犬にも気がねして、そっと出てきます。

 僕は医者の上前をはねる気は、全然持っていません。会員の皆さんが幸せでさえあればいいと思っているだけです。病気がよくなるのはおまけです。

 僕は会員の方の家庭が幸せになった、ということを聞くのが一番嬉しいわけです。

 僕は地図を見て、世界中を旅行していますよ。家の中には、世界各地の名所、土産物等の案内が揃っています。そして楽しい場所に行く様に心掛けています。戦趾等はできるだけ行きません。特に新婚旅行にはこんな趾を選んではいけません。

 僕の弟の一人に、子供時代、ワンパクで仕様のない者がいた。姉が伊東へ連れていってやるといったら、猛烈に勉強して、高三の時は学年代表になった。これは親が子供を粗末に扱った為で、愛情不足のせいだと思います。しかし、成績が良くなると、ホイホイと扱われた。最初から愛情を注いでやればよかったのに、と思います。

 僕は自分で楽しく生きてゆける自信がある。この自信が皆さんの前で話ができる所以だろうと思います。

 僕は幸せ過ぎて、死ぬのが勿体ない。若し、死ぬようなことになれば、神様をうらみますよ。

 僕から出ていると言われている電磁波(不思議な力)は一体どこから出ているのでしょうか。早く研究してもらいたいものです。

 どうも、僕は最後に一言多いので、これは早く浄滅しなければいけませんね。

 僕は、歯に衣をきせずに申し上げるので、その点、御了承下されば、有り難いと思います。

 何にもなくて、この壇上に座っていることは退屈でしょう。でも、皆さんが、色々と芸をしてくれるので、助かります。

 人間シャレッ気のない時は、寒々とした感じがします。シャレはおシャレでいいんですよ。僕の詩はロマンチックでおセンチなものです。 

 一人で居ても、常に楽しい気分になれるように、日頃から訓練しておきましょう。

 念ずる時は、「八島」でなく、「御守護様」にして下さいよ。御守護様を念じても、八島を念じても、私の体にくる事は変わりはありませんが、生身の個人八島は、人様に念じられる様な神格でないから、区別して頂き度いだけです。

 品物を買う時は、事情を買う。何をどの様に買うか、私は楽しい事情、良い結果を考えて買い物をするのが、とても楽しいです。

 いわゆる霊感現象の出る方は、お幸せで、お気楽で、周囲を気にしないで、結構ですね。若し、僕にもこの現象が出たら、どうでしょうね。

 僕はお約束が果たされないと、病気になる性です。

 僕はなんにも困ることはありません。家は一間で結構です。たとえ家が焼けても、戻らなければならぬということもありません。

 僕は自分一人で制作していた。次第に生きる範囲が狭くなってきた。どん底生活になって、己の我を捨てることに気がついた。そして、大勢の中で暮らしてゆけるだけでも幸せであり、孤独が一番みじめになる原因だと悟りました。

 僕は鑑札をもらって、プロの間を往来して、骨董品や宝石等の鑑定をしたことがあります。

 僕はある時は、「ノリマキ」を一本食べながら、仕事をしました。その半分は迎えに来てくれる運転手君にあげることにしていました。自分より他人をたてる心が幸せにつながると思いますよ。

 僕は口が悪いわけではありません。ただ、本当のことをいうだけなのです。

 僕が黙っている時は、余程、難しい問題を考えているか、身体の調子の悪い時です。僕は一年中歌っているか、話しかけています。

 僕は常に楽しい気分でいるのでしょうか。どんな材料でも楽しいものにできます。

 僕は俗人だし、格好つけてゆかねばならぬことはないので、気は楽だ。

 私は自分の精神的に不安な境遇から抜け出すための努力を繰り返すことによって、自分が変わってきた。

 肉体と精神は同じであることが分かってきて、自分の肉体の変化で他人の悲しみを知ることができるようになった。

 政治の可否も、人心の変動も又自然の成り行きです。だが僕は毎日感謝のうちに過ごしています。

 僕は両親と一緒に歩けるのが嬉しかった。又そのことで鼻が高いとさえ思っていた。

 その当時、僕の父親は九十九歳で大阪に住んでいました。父親は三回この会場に来たことがあります。僕はいつも、親に口答えをしたことは一度もありません、と言って会員の皆さんに紹介しました。

 若い人が、真っ直ぐな心で歩み出しているのを見ると、本当に嬉しい。

 僕は何年間か能勢の山に住みましたが、蛇には咬まれませんでした。咬まれるにはそれだけの事情があります。僕は誰とも争わなかった。又、猪の通路にも幾度も這入り込みましたが、残念ながら逢えませんでした。人を責める心を棄てたからです。

 人を責めて、グチっぽかった僕が、今、皆さんにお話しているのですから、考え様では、いい加減なものでしょうか。

 私は祈念に特別な方法は持っていない。自分の感性の性格が今日の結果となっている。

 僕はいわゆる、霊感現象は出ませんが、体は始終ポコポコと感じています。それを研究して、今日の基礎ができました。

 私にとっては会場の皆さんのことが最優先となります。

 僕は男女を問わず、浮気心のない人を見たことがない。だから、自分だけの浮気心なら許されるべきかも知れないと思う。

 ギャンブルは何かの埋め合わせでやっているのであろう。僕は一切やりません。

 僕は宣伝はしない。人の本質はそんなに差があるものではない。威張っている人は窮屈だと思います。

 一日一日を無駄にしないで勉強すべきだ。僕は拾い読みですが、必要に応じて、しつこく読み続けるうちに分かってきた。

 僕の家では両親から何一つ援助して貰わなかった連中が、まあまあの生活をしている。

 僕は御守護の命令でネクタイをしめていますが、誠成公倫会のループタイは中々いいものですね。

 鳥越憲三郎氏は私と似た考えをもっているが、詳しいことは未だ解明していない。その不明な部分はこの会場でなければ分からないでしょう。

 僕は若い時、珍しい服装をしていた。即ち縦縞の服に共生地の帽子、マドロスパイプに白い手袋をはいて、ステッキをついて歩いていました。想像してみて下さい。

 世間一般では、口約束は無いものに等しいが、僕の口約束は実印を押したのも同じで、必ず実行します。

 僕は信用されているらしい。買い物等は名前だけで済みます。勿論支払いは確実です。

 僕は若い時、他人が目に入らなかったし、人が何と思っていようと、それこそ、何とも思わなかった。

 女性に、もてたいなどとは思わなかった。

 現在の政治家は自分の利益だけしか考えていない様に思えたので、それまでの一切の付き合いを止めて仕舞いました。

 僕は長男だが、跡を継いでいない。両親の財産は皆さんの気の済む様になればいいのです。遺産はもらわない方が気が楽です。

 僕は相手の心が分かる。勿論、人は全然気付いていません。誠成公倫会ならではの事だ。

 僕は妥協しません。すべてプラス、マイナスで動くので御理解下さい。

 

 

10.6

 

    人間・人生

 

 何事でも責任を持ってするように習慣をつけておきましょう。やりっぱなしの人は他人のお世話になるものです。

 人に注意する時は、その注意が自分に言われた時のことを考えてしなさい。相手は生きているんですから。

 人の上に立つ人は、他人の長所を必ず認めて、伸ばすだけの思いやりがあります。

 どんな人とでも、長所を認めてつき合っていると、将来必ず益することがあるし、仕事もうまくゆく。

 何事も新米のうちが、瑞々しくて、いいものです。

 人間が物質なら、物質の範囲で分かるでしょうし、若し、精神的なものならば、精神的にしか分からないでしょう。

 こわれた人間の心は中々元へは戻らない。

 自分を成長させるのは常に自分です。

 人間は一つ間違えると、グチばかりが出てくる。

 結構な方は、結構な心の持ち主です。

 その人の分に応じて、すべてのものが起こってくる。マイナスの人はすべてのことがマイナスであり、プラスの人は起こることがすべてプラスである。

 

 

10.8

 

 己を知るとは、他人のものの善悪を冷静に判断できること。又、自分をごまかさないで、自分の欠点を知り、如何にすべきかを知ること。

 親切の押し売りはいけません。

 若い人を相手にしている人は、しわがよらない。自分の顔は自分で作るべきです。どんな心の世界に生きているかで、その人の顔は決まってくる。

 美しさを知らない人は、喜びを知らぬ人だ。

 持って生まれた性質を改めることは非常に難しい。これができると浄滅も可能である。

 偏屈や皮肉を売りものにする人は不幸だ。

 何でもやりとげること。少しでも残すとそれは何時までも残る。

 人とうまくゆかないのは、先祖に於いて、その人と対立関係にあったことになる。

 祖先からのお知り合いとは仲よく、自分の我を出さず、どんな御縁でも大切に、人の信頼を裏切らないで、約束は必ず守り、人には迷惑をかけない。たとえ、だまされても人を責めない。こんな生活が幸福というのでしょうか。

 無理をしても愉快な気持ちで過ごしなさい。そして大勢の中に出ていって話をしなさい。

 自分を生かせる人は幸せである。

 理屈屋結構です、進歩があります。何にもなければ従順そのものになるべきだ。

 積極的にやる人はリーダーになる資格があるし、やっておれば又、できる様になる。

 いい波に乗った時は、その状態がいつまでも続くように、あるいは保存するように努めることが大切です。

 誕生日を境に事態が変わるので、前後どちらの状態であるかを知る事である。

 一歩下がって、物事を考えると、色んなことがスムーズにゆく。

 生物は皆、生みつけられたものがある。人間は多くの条件付きである。

 暗い心の人の集団でも、その中心には必ず明るい気分の人がいるものです。

 自尊心は良い方に生かせれば、いいものですよ。自分で何事も解決してゆける人がいいのですよ。

 若い人は人を自分のワクに入れようとするが、これは世間を知らないためです。世間を知るには年数を必要とします。世間を知っている年配者は魅力あるものです。

 世間が狭くなると、生きづらくなる。

 老人が大切にされ、可愛がられるためには、新しい時代を理解しなければいけない。

 いい物を持つことは、物を大切にするし、気おくれをしないし、馬子にも衣装です。

 人は何故生きているか、誰も知りませんが、生まれたことを感謝すべきだと思います。

 他人に信頼されて初めて、人の頭に立つことができる。その人の人間性でしょう。又、他人に買われるだけのものを持っていなければならない。

 中心の人が変わってゆけば、その団体はよくなってゆく。対外的に理屈屋がいれば、家の内にも屁理屈を言うものがいるものだ。

 人間老いた時は上品でありたい。

 人生には心の糧が必要である。

 やるだけやると、全部自分のものになる。

 センベイ布団に座れないような人は小物でしょう。将来伸びないでしょう。

 人間は常に岐路にある。気分の悪い時は何にもしないこと、いつも悪影響が出る。

 

 

10.10

 

 腹が立つ時も、つとめてニッコリとしましょう。

 生命に終わりがあることを知れば、一日が如何に尊いかということも知るべきである。

 老死の場合は、男性は女性に結集は普通ですが、すべてではありません。

 大将になるには上司に上手に仕える人、心の広い人で、人を蹴落としては大将にはなれない。

 自然界の定めは力のある者が大将です。力とは気力、体力、知恵共に優秀なること。

 この世で頼れるのは己だけである。己の生きているということを、しっかり知ること。決して思い上がってはいけない。

 人間の世界を、常に正しく、平等に見てゆくことは大切なことです。

 面倒くさいことでも、やってしまうと、いい気分になります。

 人はその時、その時の絵をかいて、生きてゆきなさい。

 現在は永続きしないから、現状に満足しないこと。

 人は責任を転嫁し易い。自己中心を捨ててお互いに譲り合う気持ちで、感謝し合えば、自他共に幸せになることは必定。

 人生が分かってきたら、そこから再び始まるから、その時から又、出発すればよろしい。

 他人に求めないこと。味方があれば、必ず敵がある。

 自分以外のもう一人が、常に自分をみつめていることを意識しなければいけない。

 何かにすがっていては生きてゆけない。ほどこしを受けない為には、自分でやってゆかねばならない。

 何事も分かるまで努力しなければならぬ。

 人前で話ができるのは自分を育成したからであり、又、話することによって自分を育成するのですから、できるだけ話をすること。

 宗教哲学よりも、現在に生きる方法が大切です。その方法は他人に認められることで、他人を倒しては自分は生きられない。

 姿勢は心の現われでしょうが、お婆さんの猫背は一家を背負ったからでしょうか。大衆の中で姿勢を正す人が抜きんでてくる。

 

 

    夫婦

 

 夫婦仲良くすれば、プラスでないものは自然と去ってゆく。

 夫婦が相反すると、いい仕事も逃げていって仕舞う。

 夫婦は同質だが、性格は相反する。

 夫婦と父母の関係は三角関係である。心から、こだわりをなくすることが「和」を保つ最短距離である。

 どんな社会でも、妻が認められると、夫もその社会で認められる。これがバランスというもので、自然の法則である。

 子供を産もうとする時は、夫婦はいい感情で交わらなければならない。

 夫婦の性質は全く反対であるからこそ、いいのであり、また悪いのです。

 主婦が他人にもてる時は、主人も浮かび上がってよいが、浮気をすると、主人にもめ事が起きる。男性は主人のいる女性と交わると、必ずもめ事が起きる。

 夫婦の仲はむつかしい。あればうるさいし、なければ欲しいし。

 すべて親の教育や夫の教育が、子供を、妻を一人前にする。これは猿や犬を訓練するよりも根気が必要である。

 夫婦仲が悪いと、生徒は必ずたてついてきます。

 自分を変えることは難しいことだから、生徒に「改めろ」といっても、それは無理なことだ。

 女性が結婚して、亭主の働きで、着飾って見せびらかせるという、そんなささやかなことの中に幸せがあるのではないだろうか。

 奥様は御主人をほめて上げて下さい。必ず御栄転があります。

 夫婦間では、お互いに好きであるということと、幸せであるということは別である。

 奥様方は御主人には感謝を、目一ぱいに、より以上に表わすのがよろしい。

 生涯、恋愛感情を持って生きてゆくことは幸せである。夫婦でも同じことで、感情的な不幸を持っていってはいけない。

 主人の求めるだけのことをやっている妻はいいが、求めないことまでする様な妻はどこへいっても、でしゃばりとなる。

 いい妻だと感じた時に疲れがとれるし、仕事もうまくゆくということになる。

 夫婦はフゥフゥいいながらの共同生活です。

 生みつけられたマイナスを一つずつ浄滅してゆきましょう。主人と上手くゆかない程不幸なことはない。ここで頑張って、教えられた感情を使うこと。

 最初は「アバタもエクボ」の夫婦も、年経ると次第に、自分にないものを相手に見つけて、責め合うようになる。他人なら知らぬ顔の事柄を、悪気なく言い合う。少しは他人行儀のものがあってもいいのではなかろうか。

 親しき仲にも礼儀あり、を拡大解釈して、お互いに労をねぎらって、感謝すべきだ。

 

 

    女性・結婚

 

 女性は常にニコニコして、むしろお茶っピイの方が好かれる。

 女性の泣き落とし戦術は、チョンマゲ時代の話で、流行遅れ、泣く時は鏡を見てごらん。

 女性の職業は、それで家庭がプラスになるならやりなさい。マイナスになるなら止めなさい。

 女性は明るく、かわいくて、みんなにかわいがられるのでなければいけない。不要な返事をしないこと。自分をもち出さないこと。我をださないこと。

 浮気心のない人間はいない。

 いかに体質が変わっても、男女の性が変わる筈はない。又個人の内容にある男性女性の質の割合も変わらない。

 女性の進む道は、女性の役割を自覚して、完全に果たすことである。

 女性の価値は容姿ではなく、味のある女性であること。男性なら人前に出してもいい男性であること。

 いい条件の時に決まった結婚は将来うまくゆく。お見合い結婚の方が、恋愛結婚より成功率は大。

 男女は常に平等です。お互いが努力してこそ向上があります。

 おしゃれは異性のためにある。美しい顔もその人のうちから、にじみ出たものでなければ本当のものでない。

 博識であることは其の人を助ける。いい趣味をもつこと。下品は結構になれば次第に通用しなくなります。

 誰でも夢を持ちましょう。そして胸を張って姿勢を良くしましょう。以上の二つは、女性が美しくなる条件です。

 趣味は広く浅いのがよろしい。女性の独立独歩は不幸だと思います。夫をうまく操縦できる人は幸せだと思います。

 何時までも少女趣味を持ち続けられたら、何時までも楽しい気分で居られる。

 父親に好かれるようになると、よいボーイフレンドができるようになります。

 釣書が落ち着く所は、同質の家である。「つり合わぬは不縁のもと」ということは、両人が同質でないためである。

 異性のことを考えない様になると、人間も終わりだ。生きている間は健全な色好みでありたい。人は常に楽しみを持って生きること。

 相手に理解してもらうのは難しいので、自分が理解するように努めましょう。

 御縁のプラス・マイナスということは、結果が良かったものがプラスであり、その御縁は止めていて良かったということが最初に分かるということが、プラスの状態である。

 お答えは、その時の本人の状態によって、プラス、マイナスが決まる。御縁の話も、こちらに悪い時は相手にも悪いのであって、先のことを読むのが誠成公倫会の「お答え」です。

 結婚はその人が最高の条件を満たす時に、即ち、たとえ貧しくとも一家団欒の状態が続くような時に最高となる。「玉の輿」は最高の状態で最高の条件が整った時に起こる。

 いい感情を持って行くと、御縁は次々と出てくる。会場のお答えは転ばぬ先の杖である。

 結婚と職業とは、幸せを標準として考えなさい。

 お嫁にゆくのも幸せ主義でゆけばよろしい。物質的条件などは結婚の条件にならない。

 女性の魅力は会話、身だしなみ、身振り等の全人格的なものである。

 香水は一番よく売れているものを選ぶべきである。

 会場へ来る女性がきれいになるとは、本当のことである。

 自分が可愛いかどうかは、周囲の人が決めることです。女性の明るさはすべてに優先するものがある。

 女性の標準は時代と共に変わり、現代は現代の女性のタイプでなければならない。

 理想は高く持って、楽しくお見合いすれば、必ずいいお相手がみつかります。いやいやお見合いをすると、その程度の人しか出て来ません。女に生まれて幸せよ、というようにならなければいけません。

 誰でも、石ころが飛んでくるよりは、女性が飛んで来る方がうれしい。

 女性の髪形は男性に好まれるのを選ぶべきで、女性に喜ばれる様なものはどちらでもよいということである。

 

 

    男性・仕事

 

 男性は仕事に打ち込めるということが第一です。この様な会員は、たとえ悪条件にあっても、次の良い波に乗れるからです。

 僕は俗人だが、やさしくて、いざという時は誰もが退くような男が本当の男だ。

 会場に座っているような青年は、社会にはそう沢山はいない。僕は誇りに思っています。

 男性には、闘争心は不必要ですが、ド根性は必要です。武道の好きな人は親爺に反抗する性です。

 説明会をすると、就職試験もうまくゆく。これが自然界のバランスでしょうか。

 

 

10.12

 

    家庭

 

 家庭内のゴタゴタは必ず子供の病気となって現われる。

 家庭の平和さえ保てないものが、どうして世界平和など保てましょうか。

 道具類は生きるものを、生かせられるものを買うべきだ。内容にふさわしいものが、結果として出てくる。

 子供の名前はよく考えてつけないと、老いてからの魅力に関係する。

 十二支も或る程度当たっているし、「暦」も三年間の時代のずれはあるが、全くのでたらめではない。

 嫁姑の関係がうまくゆかないのは、自分がそうしたので、そうなったのは、その人に理由がある。

 掃除、洗濯、洗い物等はその場限りで、きちんと片付けなければならない。そうしないと頼んでいた事も、中々頼み通りにならない。

 一家の人が同一方向に向かって歩めるということは、結構なことだ。

 墓参は事態を変えるのに役立つから、悪い時に、最も効果のあるように演ずべきです。

 

 

    宗教

 

 地獄、極楽はゾロアスター教的である。この拝火教は太陽神教となって日本に伝来した。

 神仏へお参りして、心が清らかになるのは「こだわり」です。人間は自分に都合のよい方へこだわっている。神仏はそれ自体、自分の心の中にあるものです。

 宗教は悲観的な気分になった時に利用するものです。どんどん進んですべてがうまくいっている間は御無沙汰するのが普通です。

 宗教にすがる心があるうちは、本当に生きてゆけない。

 誠成公倫会は生活の指針と考えるといいので、宗教であろうとなかろうと、どちらでもその人の考え次第です。

 キリスト教の罪、仏教の業は背負ってきた遺伝的なものです。これから抜け出るのが誠成公倫会なのです。

 天国、地獄、極楽などは、観念的存在に過ぎない。

 

 

    民族・社会

 

 いろんな文化と共に人種が入ってきて、日本人は混血の民族となった。

 自由主義社会も自然と共に考え方に変化が起こって、その考え方に従って存在することができるでしょう。

 英国と日本とは相対的だが、純粋性は日本に分があるように思います。

 人間の社会組織は感情で組織されている。

 白人と黒人は祖先は一つで、黒人がなくなれば白人も消えてしまうことを知るべきだ。これは両方が同質であって反対だから。

 世の中は刻々変化しているので、それに合わせて、行動しなければならぬ。そして、一般的社会常識を破ってはいけない。

 家庭の和があれば、社会の影響はなく、家庭は結構になって行く。

 不幸は起こるべくして存在する。社会奉仕がその人達にどれだけプラスになるでしょうか。国家に対しても、家庭に対しても、多くは期待できないでしょう。

 自分に関係のない仕事はしないように、名誉心のみの慈善事業には手を出さないように、それらの結果はすべて無になる。

 

 

    友達

 

 自分より他人のことを考え、相手の気持ちを尊重しなさい。これは友達ができる方法なのですよ。

 僕はキリスト教で育ち、仏教を学び、誠成公倫会を発見した。友達が増えることは幸せの始まりです。

 

 

10.15

 

    金銭・商売

 

 金の入る条件さえあれば、悪人でも善人でも、金は入ってくる。

 物質的な豊かさと、精神的な安らぎとは、別なことである。

 僅かなことにも興味を持って、楽しい人生を送ろうとするお店へは、お客は安心して集まってくる。

 成功は、自分の努力と他人が認めることで達成される。

 成功は、その人の人となりによる。物質によらず、感情による。

 円は縁故でやってくる。人とふれ合う感情が問題となる。

 商売はお客の好みに応じてしてこそ、発展するものだ。

 筋道を立てて、物事を進めて行くと、相手も筋道立てて応じてくれる。商売がうまく行けば品物も順調に回ってくる。

 働いても働いても貧乏なのは、多分頭の悪い人でしょう。この会のゆき方でやっていれば、お金は勝手に入ってきます。

 夫婦は平等であり、すべてのものは半々である。儲けも負債も。

 金よりも信用が大切です。家庭内が平和で暮らしている間に金は溜まります。泣き言を言っている時は不必要な金が出て行くものです。

 感情は勘定です。会場に来ている人が金に困るなどは恥ずかしいことですね。

 金儲けは案外、ガタガタ走り回っている時は出来ないものだ。その時の感情が問題になる。

 同じことをやっても、うまくゆかないのは感情がないからである。

 不平不満の人は愚である。生き方こそ大切だ。金銭に頼らず、金銭が自然に入ってくる方法に頼るべきである。

 一家が協力すれば富豪になるであろうし、一族が協力すれば財閥になるであろう。

 此の世は右か左か、伸びるか落ちるかのどちらかである。

 どんな時代でも、幸せになれる人間はいるものです。不景気な時代でも、大儲けする人もあるのと同様です。

 

 

10.16

 

    自然

 

 自然は必要な時に、必要なものを作るものです。

 自然界の法則として、相反するものは必ず存在するし、自然に反しようとしても、必ず元へ戻るものです。

 自然は絶滅に向かって進んでいます。これを食い止められるのは会場での浄滅しかない。

 自然をよく観察すると、ある状態は自然にその場に合ったものが出ているものだ。

 自然を創造したものがあるとすれば、それが神と称せられるであろう。

 死とはこの世に存在しなくなるだけのことで、遺伝により、肉体は再び次の時代のものを形成する。

 

 

    小言

 

 身近なところに危険があります。相手の心を傷つけるぐらいなら、真実も告げないで、黙っている方がいいのです。

 小言をいって、若し心にひびが入ると、これは生涯元には戻りませんよ。

 

 

    脳波

 

 脳波は発信、受信が同時に起こるので、光より速いかも知れない。

 いわゆる、テレパシーはどうやら存在するらしい。これが可能であるためには、一切の外からの考えを入れてはいけない。我を捨てようと思うことすら考えない状態でなければならない。

 

 

10.18

 

趣味

 

 どんな些細なことにも楽しめるだけの基礎をつくっておくことは大切なことです。

 ドーベルマン大会は、一堂に会することが眼目ですが、犬の性質も大切です。大会の目的の半分はドーベルマンにある。そして、大昔からの縁故の地に集まり、共にある時期を乗り切る。

 好きなことをすれば、その方に気を奪われて、嫌なことは忘れられる。楽天家の方が楽しい生活を送ることができることは確かです。

 何でも見て、聞いて、読んで、楽しむことですよ。

 興味のある時は何でもよく頭に入る。趣味は、その精神に於いては結構だが、形式にとらわれてはいけない。

 芸術は永遠に満たされることのない慾を、常に求めてゆく生活の連続であるので、決して幸福ではないと思います。若し、満たされるとその芸術は、そこで終わりとなるからです。

 何事も専門的になると、深くきびしくなって、不幸に連なる場合が多い。趣味は広く、浅くが常識で、その方が幸せである。

 楽しむ時は、変に格好などつけずに、単純に、子供のように楽しめばいい。

 作品はその人そのものであり、全人格が現わされたものである。

 センスはものに触れて養うこと。そうすれば自然と身についてくる。

 人の終わりはみじめなものです。だから年老いて如何に生きるかが問題となる。うんと楽しみを持つこと、若い時から欲得なく好きな事に気を奪われること。そうすれば、楽しく死を迎えられることでしょう。

 手相、人相、骨相も長い間の統計だから、ある程度当たるでしょう。手相、人相を変えられるのは誠成公倫会だけ。

 読書は平和な平凡な作家の小説が良い。自殺等した作家のものはいけない。

 姓名学も因縁事ですが、どんな名前をつけても性格は変わるものではない。

 占いは当たっただけでは価値がない。当たったマイナスをプラスにできるのは誠成公倫会だけ。

 

 

10.20

 

保健・医療

 

 病気になる感情と、正反対の感情の使い方を覚えること。

 病気の半分は会場で座っていれば治るが、後の半分は自分の努力で治すべきである。

 合成薬品はこわい、漢方薬の方が自然だが、個人的差は著しい。

 こだわりを持つと病気になる。このこだわりを離そうとしないで、正反対のことを考えていれば、病気は良くなってゆきます。

 健康が第一です。事故は腹立たしい時に起こりやすい。

 身体は毎日変化している。誰でも、もう少し若いままでありたいでしょう。でも、ものには限りがあるので、いずれ終点がくるでしょう。

 病気の病の方は医者にまかせても、気の方は会場にまかせなさい。

 結果がよいと分かったら、嫌でも実行しなければならぬ。夫婦の仲とて同じことである。

 

 

10.22

 

 幸せの最先端には健康があります。身体は大切に使いましょう。

 体内に入った外からの異物は、感情と一致すれば有効に作用する。若し感情に合わなければ、異物は副作用を引き起こす。

 肉体だけでなく、むしろ感情を診ることができれば、病気の予後は一目瞭然として、判断ができる。

 事情の悪い人は新幹線の過冷房の中でも平気でいられる。結構な人ほど、暑さ寒さに鋭敏かもしれない。

 家庭に病気がなくなり、心配事がなくなれば、それから家は栄えてくる。

 精神と肉体は同体であるので、肉体に一方的にビタミンを与えても、精神が変わらなければ、負担だけをかけることになり、むしろマイナスとして働く。

 

 

学問・教養

 

 こだわりのあるのが人生で、色々な勉強もすべて幸せにつながるようにしなさい。始めは、広くやりなさい。

 教養のない人は愛想つかされ易いし、理解ができ難い人は浄滅も遅い。

 学校で教わった事や習いごとは、どれだけ生きて使えるだろうか。

 

 

10.24

 

 すべての学問は、終局に於いて幸福に結びついて開花する様でなければならない。

 色々なことを知ってくると、何事をするにも、やりにくくなってくる。

 学問は幸福につながって初めて価値がある。世間には学問があるばっかりに、生命を落とすこともある。

 

 

            八島義郎

 

 
 
 
 




 

 

1982.10

昭和57年 秋期歌唱劇「温泉町の女」

 

 

 

 


















































































 











 
 
 
 
 






































































































 















































 















 
 
 
 




 

 

 

 

 

 哲広は学生の頃、東京上野桜木町の叔母の家を訪ね、近くに住む高校生、利子と桜の花の下で知り合い、二人は互いにほのかな恋心を抱く。

 その後、「日本宇宙開発協会」横浜分室に勤務となった哲広は二年後、東京本社に栄転。送別会の席、クラブ「つるみ」で思いもかけず、利子に会う。しかし利子は哲広の前から姿を消す。

 それから一年、哲広は博多研究所へ転勤。何というめぐりあわせか、東京を離れる途中の伊豆史跡巡りで、温泉町の女(ゆのまちのひと)となっていた利子と出会う。

 夢の様な数日が過ぎ、哲広はひとり博多へ。バスに乗った哲広に「向うに着いてから読んでね」と手紙を渡した利子は、伊豆から姿を消していったのであった。

叔母の家  ベランダに八島義郎(遥雲)作「温泉町の女」の絵

クラブ「鶴見」 送別会があり、哲広は二年前に姿を消した利子に会う。彼女は「住む世界が違う」と言ったまま、姿を消す。

浜辺の訣れ 哲広は、思い出の一夜を思い浮かべる。利子は言う。「いつまでも、お元気でね」・・・・・

目の中に飛び込んで来た 熱海の夜景

 

 



1982.11

現代のカリスマ」 山本幹雄

 

 

 
  
 
 

































 
































 












 














 

































 


















































 




































 
















 



























 




























 




























綿











 
















 





 



















 

 

崇神の神詞

         

 

 

 

 

若き日の八島義郎

 

 ある晩、一場の夢をみた。そこは仏具店。自分はその店の居間に上りこんで、かなりの歳の女主人と話をしている。隣の部屋にはイガ栗頭に兵児帯姿の、これまたかなりの歳の男性がいた。居間から通りの方をみると、店に仏壇・仏具・仏像がならべてあり、ガラス戸の向うはもちろん通りである。しばらくして、数珠を肩からたらした背の高い白い行者姿の人物が、ガラス戸ごしに店の中を見ている。妙栄。母につたえたところ、「能勢の妙見様あたりのことかもしれない」。能勢まで出かけて「妙栄」さがし。完全に夢が現になっている。夢が現実に先行していた。〔昭和29年〕

 

 何時見ても真面目に働いている者で、他人に不利な事をする者はない。出世払いでよろしい。わしは置いていく。といって、米を置いていった。坂東米穀店。その後ろ姿にいつも手を合わせた。

 

 八島家の下屋敷は本所。父・信次が鹿島を辞め、中国に渡って経営した金山も三井財閥が引き継いだ。父が中国から引き揚げる際、大成建設から声がかかり、それを機に八島家は関西に定住、御影その他に居を構えた。兄弟姉妹5人の長男。広い屋敷のうしろの池にむかって、邸宅の一室から釣り糸を投げ、終日、ウキを見ながら絵を描いて過ごした。

 よし、一生を賭けて芸術の世界に入ろう。

 美の創造とは、対象の本質をみずからの心眼にとらえて命がけで純粋に造形すること。

 

 尼崎、金楽寺の一角。ハンチング、ニッカ・ボッカ、トカゲ皮の靴。下駄売り。あんな恰好しはって、ほんまにええ衆やったんやろ、可愛そうにゲタもよう売りはらへん。いっちょ、近所に声かけて助けたろ。オッちゃん気張りや。義っちゃん、つらかったなァ。一個いくらの細工ものとして注文先に納品。

 

 やることはやります。しかし、そのような大きな仏像は、今いって今すぐというわけにはいきません。加藤清正公もよくこの目で見て、納得のゆく清正公を彫刻するには、木材にもよい材質をえらばなくてはいけません。日数がかかってもよろしければ、彫ってさし上げます。〔昭和30年末〕

 遠く、見もしらぬ人間が、夢枕にあらわれた「清正公」のまぼろしにすがって生への回帰にあがいているという現実と、それが思いもかけず能勢山中の一彫刻家の己につながった、という縁の重さと不思議さ。

 一心にノミを振るえば「清正公」が現われるという営為と、ひとりの人間の命とが深くかかわりあっているという、背骨が痛くなるような緊張関係の中に身を置いて、創作活動。

 

 

限りなく透明な「変身」

 

 体の中からすべてのものが洗い落とされ、何もかも透過されてしまったまるで別の自分が今ここに立っている。ここは白雪皚々、目のとどく限りどこまでも白く、どこまでも透きとおっていて、物音ひとつしないところである。ここは今まで誰ひとり来たこともない未踏の場所。・・・・恐る恐る足をふみ出すと、はじめての足あとがつく、はじめての私の足あとが。戦きの一歩、一歩が果てしない未知の地平をおし拡げる。

 その時、自分の体内から、それまでの自分というものが、すべて抜け落ちてしまって、まるで透明人間になったような白じらとした体感を自覚した。同時に、目の前にどこまでも澄みわたった光景が果てしなくひろがり、その中へ何の抵抗もなく自然に溶けこんでいくような、筆舌にはとうてい表現のしようもない状態を経験した。体が変わった

 ああ、お姉さん久しぶりだね、ところで今日は何日?・・・・これを御覧。ほら、今日姉が来る

 

 落葉を日に透かして見た。真ん中の太い軸を中心に、左右にわかれた綺麗な葉脈。すべては「相対」ではないか。左右、上下、表裏、すべてそうではないか。この自然界、森羅万象のうちに、それ自身、単相において存在するものは何一つない。存在そのものは相対の相においてのみ存在しうるものであり、絶対単相の存在などということは本来的にありえない矛盾である。まして人間的諸関係においては、事情はもっと整然としている。人はすべて男女の性別、老幼の序列、といった整然とした複合的相対の枠組のなかに位置して、その生を営んでいる。

 

 自分の体を、たとえば左右・上下・前後に区分けして、その体感がどの部位に来ているかをまず確認し、それが、男・女、老・幼などいずれに相即する体感であるかを多数例に当りながら収録し、整理していけば、諸もろの体感が伝えようとしている人間的諸関係が何であるかを、やがて明確に読みとることが可能になるはずである。右にくれば男なのか女なのか、そのどちらを意味するのか、といったいわば整理された予測とその適否の実証のつみ重ねが、それを可能にするはずである。

 左側の太股からにきて親指へとつたわる、かなりはっきりしたこの感触は、男性の来訪者のすぐそこまでの接近を知らせているもの。

 中学生たちの下校時をえらんで能勢電鉄に乗り、正しい姿勢でシートに腰をかけて、膝に手がふれるかふれないかに体の力を抜き、自分の心を生徒たちと自分の中間におくような気持ちで、かれらの話に耳を傾ける。内面に抱いた心情のままを口に出して語り合う。右の人差指にくるあの感じは、母親との葛藤の存在をあらわす感触。

 

 人と対面する時に起こる体感は、相手の精神的・肉体的な事情を反射する体感として起こっているらしい。場合によっては、相手がごく近未来に出くわすであろう事情をあらかじめ知らせる体感であったり、時によっては、相手が体内にかかえているひずみ、精神的な悩みや病気などと相関する体感であったり、とにかく、それらははっきりと相手の事情を写し出している反応である。

 人と対面し、自身の体内にある何かが、その相手と激しい勢いで電流のように交流していく感じ。自己の体内の何ものかが、相手の内奥にある何ものかと、グォーンと共鳴を起こしながら目に見えない磁気的な渦流を起こす。自分のまるで意識しない何ものかが、勝手に他者を照射し、不可視な交流をおこす。

 この先で自動車に気をつけて下さい。胃がお悪いですね。奥様に手古摺っておられますね。「阿呆か」。「験糞の悪りィ、なにヌカしてケッかんネ」。「いきなりズバリッでっしゃろ」。「よう観はるでえ、あの人は」。ふと気がついてみると、もう数人、ときによっては十数人もつめかけてきて、勝手に上りこんでいる。深日町から連れてこられた、痛々しいまでに足を引きずった老婆が、夕方、帰る間際に嬉しそうに頭を下げて礼を言った。「おかげさんで、ずっと楽になりました。来た甲斐ありました」。神経痛がおさまった。

 

 勝手に上りこんでいた連中のひとりが、突然に妙な唸り声をあげはじめ、しばらく手足をひきつらせ震わせていたかと思うと、その場にのけ反ってひっくり返り、そのまま動かなくなってしまった。ふと気がつくと、ほかにも二、三の者が大欠伸やゲップを連発したり、妙な仕種をはじめている。お化け屋敷でもあるまいし、これは困った、そう思って焦れば焦るほど、「現象」はおさまるどころか一層激しくなる。自分が逃げ出したあとすぐに連中は正常にもどったとのこと。

 他者の歪が自己の体感として写し出された場合、それが具体的にその人のどんな歪をあらわす体感なのかは、懸命な努力の結果、ほぼ正確に探知できるようになってはいたが、それと並んで、いつものあの状態を媒介にして他者の病気を和らげたり、ある種の「霊感」状態にすることなどは全く思いもよらぬことであった。はっきりとある超越的な影響力と治癒力が、自分にそなわっていることを認めざるをえないではないか。

 

 ある朝、常ならざる体感によって、ごく自然に母親が心象風景として写り、その状態が容易ならざることを直感して、驚きと不安に襲われた。その直後、久しく絶えてなかった父親からの手紙が届いた。母が重症のソコヒのため、阪大病院の宇山博士によって両眼手術の直前である。一散に能勢の山を下り、寝屋川にあった実家に飛びこんで母と対座した。異常な体感、そこにおこる激しい生磁気的な交流、一週間におよぶそのような母親との共存の時間の経過は、手術の中止だけではなく、両眼の視力の見事な復活と、以降、母の死にいたるまでのほぼ二十年間にわたる視力の維持という、まことに信じ難い不可思議を成し遂げた。

 

 

数々の証

 

 わが身にそなわったこのような能力は、もはや自己制御の域をはるかに突破しているし、自己の内に閉鎖させておくべき段階でもない。すでに人びとはさまざまな事情をかかえてここに集合しはじめているではないか。われは一介の仏師、あずかり知らぬところと、うそぶいていられるであろうか。体がきつく反応するからといって、背を向けてノミ先に逃避しきれるであろうか。縁あって訪れる人たちの事情をもろに己の痛みとして受けとめ、みずからの写鏡にとらえたその原因を説いてやらねばならないのではないか。それだけではない、全霊をもってかれらと生磁気的な媒流をおこない、事情を変え、生の歓びを回復させてやるべきではないか。お前はもはや仏師であって仏師でない何者かに転生しているではないか。およぶかぎり多数の人びとの幸せのために身を挺して奉仕すべき、無限に開かれた何者かへの転生。人の「幸せ」のために生きよ。痛みや違和感など、それがどんなに痛烈であろうと、もはや何ほどのことがあろうか。まして、彼我のあいだの生磁気的な媒流による発作など、なにをうろたえる理由があろうか。耐えて、超えていかねばならない。人びとの「幸せ」への奉仕、それがお前の変身の真義である。満座の人を前に、もはや〔彫刻の〕仕事は出来ません。どうか私の体を使ってなおして下さい。人のための幸せのプロへ。〔昭和32年〕

 

 いつもこういう感情を使っていると、のここらが痛んできて悪くなりますよ。そこが悪いのは、普段こういう気持ちで生活をしているからです。悪い感情を捨て、いつも良い感情を使って下さい。私の体を使って治して下さい

 貴方は病気の問屋ですね。しばらく通ってごらんなさい。(朝起きると血の海。お手洗い、肉塊が次から次へと、12、3個も)心配しなくても大丈夫です

 善さん。頭が高い。赤心とは何か

 皆さんの将来の姿はどのようでしょうか。K、5年半先には長屋の小さな家に入っている。

 三ヵ月通って見なさい、良くなります

 明日ここにやってくる人は何人で、そのうち和歌山からは何人、豊中からは何人。

 (霊感の出るものが自然に演じて見せる。ある男性のネクタイを締め上げた)この現象は、わたしに見えている今の貴男の家庭状況を、そのままあらわしています。貴男の浮気に奥様は深刻な気持ちになっておられるのです。

 (昭和33年。垂水。鎧直垂、股立、戦の装束をした男女が沢山。若衆姿の人が何かの上にお茶をのせて捧げる)そうですか。(生首が転がっている。同行者の先祖がここで死亡。首を打て。源平の合戦のあと。切腹者の何番目の頸椎を断つかまでを見とどけたとき、それを筆録した)この武者の血をひく、はるかな末裔はいまも生存しているし、年が明けて早そうに「山荘」を訪れてくるにちがいない、それも8世紀も前のこの武者の「因縁」を背負って。その男は新春第四番目の来訪者であるはずだ。

 

 

崇神」への仮託

 

 古事記。崇神御真木入日子印恵の命、師木の水垣の宮に坐して、天の下治めたまひき。かれ、この御世を称へて、初国知らしめしし御真木の天皇(みまきのすめらみこと)とまをす。・・・・御陵は山の辺の道の勾の岡の上にあり。

 橘の木。葱坊主と麦畑。京都、竹田。城南宮。。これだったのか、これだったのか。それにしても、この気持ちはいったいどうしたことなのか。

 勅願寺・安楽寿院。老住職は斎藤了全。その石は、春華門院の墓石。宮内庁。そうか、あの激しく火の匂う若き巫女は闇をひらく天照であったのか。あの草木しげる大墳墓は応神の陵、あの巨陵は仁徳のそれか、いつも同じ風物のなかで招きかける二人の女性は、京の城南に縁り深い八条春華の両院であるのか。あの三十三間堂界隈のたたずまいと、石庭・龍安寺裏山の風景は、後白河一条の陵墓の所在を告げていたのか。あの深い抱擁感を伴う情感の高まりは、このことを意味していたのか。

 昭和34年5月10日。御陵参拝に行きたいのですが・・・。奈良。龍安寺の裏山。はい、左へ行って下さい。御陵。仁和寺城南宮。お墓。バスで大阪に。窓の外を騎馬の蹄の音がついてくる。天王山からサントリーの工場を過ぎたあたりで、それがバッタリ消えてしまった。春華門院の手の者が所領はずれまで見送ってくれたのです。いま、なぜ、「崇神」なのか。なぜ、それを介して、いま、この己なのか。

 

 

還俗の行

 

 24歳頃の秋。制作につかれて、気分転換にと、下駄履きで御影の家を出たのが午後3時頃、旧知の和尚のいる裏六甲の唐櫃にある専念寺にむかった。表六甲を越えて谷に下り、蝮をつかまえ、歩きつづけるうちに真暗闇となり、空の星明りをたよりに進んだ。有馬を西に抜けて、庫裏の戸口に辿りついた。和尚が、「今頃、誰やねん。・・・・ええっ、ほんまにセン(彫刻の先生)かいな。狸ちゃうやろなあ。早よう、入り」と迎え入れて呉れたのが深夜の11時40分頃であった。「ちょっとな、セン、手伝てや。あのな、明日、御馳走するさかいな」。押入れの大火鉢に鯉が3匹。その時の居候はかなり長かった。何しろ気楽で居心地がよい。夜になると御本尊の真裏の電灯のない部屋で、灯明をたよりに読経をくりかえし、時には和尚の尻について、法事に出向くといった殊勝なこともやった。

 饅頭塚、専念寺の裏の墓地を抜けて細い山道を行くと、赤松円心の分髪を納めたという塚。夜中になるとしばしば寺を抜け出していって、その土饅頭のてっぺんにある石に跨った。そこに行くと気がおさまる。天空の星以外に光はなく、あたりは一面の闇。生涯にたった一作だけでよい、後世に残る仕事が出来ればそれでよいのだ。そのために、狂わしくも己の耳をそぎ落としたやつもいるではないか。芸術とはそうしたものだ。俺もそれに命を賭けて、いつかは男になる。〔昭和13年〕

 

 昭和29年の中秋。〔40歳〕能勢山中の樵小屋でこうして深夜ひとり端坐しているこの自分と、かつて若かりし日、裏六甲の暗夜の土饅頭にまたがっていたあの自分と。気がつくと、ひどく空腹。今日は朝から何も食べていなかった。食うものがなかった。ここは自分の生の果、芸術に賭けてきた人生の果ではないか。本質的になんの変化も前進もないではないか。あの土饅頭に乗って「芸術」を想い昂ぶっていたとき、すでに行き詰っていた。まったくの独りぼっちになってしまっている。共に生の歓喜を分かちあえる人の世の紐帯はもうほとんど断ち切られてしまった。この世で一番大切なもの、人と人とのつながりの中だけで通わせ合えるこの世の「幸せ」を、どこかに置き忘れてしまったのではないか。

 自分は彫師として、何よりも大切なノミ一筋に賭けてやってきた。芸道ひと筋といえばいかにも聞えがよい。しかし、この半生を経て、いまどこに来たのか。一寸さきも見えぬ暗がりの中に閉塞してしまって、いよいよ明日食うものもないところまできてしまった。自分にはこの道が一番適しているはずだし、随分と情熱を燃やしてきた。しかし、今、考えてみると、それは自分が得手と思いこんでいるものに、勝手にのめり込んでもがいていただけではなかったのか。独りで力みつづける天邪鬼ではなかったのか。大方の人の生きざま、本当の意味での生のふくよかさ、人の「幸せ」とは何か。「芸」にかかわることが、本当の意味での「幸せ」なのか。一番遠く片寄ったところを歩んでいた。己の幸せとは何か。己の生のすべてに対する全面的な問い直し。みずからの生の組みかえからはじめていかねばならない。

 仏師がノミ先から仏形を削り出し、それに入魂して仏像とする。仏師修行を通じて多くの仏典になじみ、当時はすでに「法橋」の位をえていた。木型に「」をふきこんで仏像にする。そのことに若い命を燃やして昂ぶっていた。己の「幸せ」とは何か。人間の「幸せ」ということについて、「仏」は何を教え、何を与えてくれるのか。樵小屋に電灯はない。水はからとる。昼は彫り仕事にはげむ。冬ともなれば能勢の山の寒さは痛烈。夜がくると「仏」との対決がはじまる。原典、解説書、片端しから読む。視力の限界がきたら、蝋燭を吹き消し真暗がりの中で問答をはじめる。三毒、貪欲・瞋恚・愚痴を滅するとは如何。眠気がくれば、それを払うために声高に読経する。そして力つきればそのまま煎餅布団にくるまって泥のように眠る。「仏」は己にとって何であり、何を与えてくれるのか。向いあう相手は、想念の中で高空に赤く輝く釈迦。生身の我にとって釈迦に発する「仏」の世界とは何か。言え、釈尊人の「幸せ」とは何か

 

 いままで「仏」を背負って生きてきた。捨てるか、抱き続けるか。「仏」の説く此世は「無明の大夜」である。一切は空。すべてを捨てよ。色即是空、穢土の此世を諦観して、彼岸の永生、「大日如来」への合一を希求するより他に術はない。此世に「幸せ」はない。すべてが虚無である此世には、本来「幸せ」などあろうはずはない、それを直視した釈迦は、此世に対する徹底した諦観によってついに彼岸にむかって「解脱」し「仏」化した。そこにはわれら衆生の「生身」の「幸せ」を鼓舞し喚起してくれる何かが欠落している。いま、この世のこの「生身」に生命のうずきを感じる「幸せ」がなくて何の意味があるのか。「仏」の世界はそれをまったく回避し拒否している。生きているこの世の己の「幸せ」とは何か、それをどう掴むか

 

 

人の「性」

 

 真暗闇の能勢の樵小屋の中で、独りぼっちで行き詰まってしまった自分を真底から不幸だと思った。腹が減っても食い物を手に入れられないほどに貧乏だからではない。いや、それもある。しかし、一番こたえたのは、自分はいまこうして「生きている」のだといういのちの熱感を共有できる者はだれひとり存在しないような、底無しの孤独感であった。俺はどこかで人生を踏み違えたのではないか。仏師となったからではない。己ただ一人というところにまで孤独化しきってしまったこの生き方は、人間の本然的な生き方でないのではないか。人間の本然的な生き方に外れていることを不幸というなら、俺は一番「幸せ」から遠い道を独り歩んでいたのではないか。人が、此世で人間的な生、可及的に最大多数の人びととの交わりを通してふくよかな生を営むことが、「幸せ」ということの基本態ではないのか。それが人の世の「縁」ということであり、だからこそ、古人もまた繰り返し、その大切さを教えたのではないか。

 己をそのように追い込んでいったものが己の深部にある性(さが)であるとはっきり意識した。この性が、いわば仏像という己自身をこれでもかこれでもかと抉りこみ、彫りこませていた。それが生き甲斐であり、ゾクゾクするほどに楽しかった。俺は「芸」に生きる男なのだ。「芸」さえ磨けば、他に用はない。こんな楽しいことはない。世間並みの俗な付き合いなど邪魔になるだけで、まっぴら御免、知ったことではない。第一、世間の奴らと馴れ馴れしく付き合うなどは思っただけでも反吐が出る。それがもって生まれた自分の「気質」であり、根源質、性であり、己の「幸せ」をもっとも妨げてきた魔性なのだと気がついた。これを撃たねば「幸せ」はめぐってこない。だからこそ、まさにその性を撃つ「荒行」に入った。

 

 

「性」を撃つ

 

 およそ体を変えられそうなことはすべて試みた。薬草の飲用からはじまって、あらゆる反「ヒト」的な所業の数々を、恐れもせずに次々と試みていった。捨て身で自分を生体実験していった。「科学的」な体質の改変・性の変革。生物的な体質の改変。まるでお門違い。性とは「ヒト」という生物であるという「モノ」の次元にあるのではなく、それを超えた「人」の次元にある。己のもっとも自然な感情のままに営まれる日常生活、そこに写し出される己の姿(個性)をしっかりと捉え、それを統御する。自己のもっとも自然で得手な日常生活をいちど全面的に中断し、徹底的に組み替える。人あっての自分ではないか、人間とはどういう字を書くのか、自分だけ独りで存在しようということ自体、すでに反人間的である。己の「幸せ」は、人様の中にあってこそ見つけ出せる。人様とまともに交わることも出来ないで、独りよがりに生きていって、まともな「幸せ」などくる訳がない。自分の「幸せ」というのは、人様と交わり、人様を真底から幸せにしてあげようとすることを通してやってくる。自分の「幸せ」というのは、そのように、人様の「幸せ」と表裏、相関において出てくる。人との交わりを「喜び」と感謝をもって実践する。人様とまっとうに交わり、喜びをもって人様の幸せにかかわらせて貰って、真の人間への回帰を果たそう。

 

 もはや己に「芸」は不要であり、意味はない。他に能はないから、仏像は彫る。だが、それは自己を仮借なく彫りこむ、あの「芸術」彫刻であってはならない。単に生活の糧としてのみ、仕事としてのみ彫る。今日からはそのように淡々と削る。喜んで彫る。大事な注文主、お堂の執事は、納める彫り物を横目にみながら、「ほら、また一個いくらの人形はんが出来てきたで。急いたはるよって、早う勘定したげて去んでもろてや」。もうその時、喜んで「芸」を捨てていた。だから、この言葉を、有り難い現金決済の商売用語として、にこにこと喜んで聞いた。ぐっと何かをこらえて聞いたのではない。「還俗」してきて、人様の中で生活をさせてもらうための、ビジネスとして注文主への芯からの感謝の念をもって、にこにことこの言葉を聞いた。それまでの生命であった「芸」を喜んで捨てた

 自分の体から何物かが徐々に、そして確実に、抜け落ちていくという体感。何物かが、体から抜け落ちはじめている。このままいって数ヵ月もすれば、自分の体はすっかり溶解し透けてしまうのではないかという、いままでかつて一度も経験したことのない緊張感と畏怖感を伴う体感が出てきた。体から何物かが抜けはじめる。抜けていく、透けていく。白雪皚々・・・・。「芸」を捨てたあとの仏像制作の過程は、ただ、淡々と木屑を払うという作業に変わった。そのようにして「我」のない作業に入った時、その彫っている仏像がそのまま注文主となって写り、その木像の節目の具合によって、注文主の疾患や事情が的確に写りはじめた。仏像は己ではなく、注文主という他者であり、それが写りはじめた。

 

 

「呪術」の質
「過・現・未」の明鏡

 

 「神」・「仏」とは完全に無縁となっていた。獲得された力は、自己変革というきわめて合理的、科学的営為によってユニークに体現されたものである。シャーマン、覡の類ではない。まさに自力「幸せ」を求めて前人未踏を達成した。僕に接した者は、何物かが自己の体内にドッと流入してくる感じに。僕もまた、グォーンという体感をもった激しい媒流を感じる。対者はそのとき笑い、泣き、転び、口走り、「霊感」現象を露呈する。老幼・男女を問わない。そのとき、地位、財産、教養などの外的・後天的エレメントは、すべて面白いほど物の役にも立たない。相手にないものは何も感じない。

 

 

人の世の「同質・相対・循環」

 

 人間が、「ヒト」でありながら、固有性をもった「人」として存在するのは、遠大な過去からの「血」の順列・組み合わせによって生得されてきた「遺伝」・「質」、すなわち「性」・根源質によってである。「同質」と「相対」と「循環」。あなたの「現在」は、あなたの遠い「過去」の再現である。あなたの「過去」は、あなたの「現在」をこえて、あなたの「未来」のなかに再現されていく。人間は、自己の過・現・未をいまの一瞬に凝集して生きている。あなたの過・現・未が写る。すべてが見透かされる。あなたの性が「浄化」されていく。

 

 

 

 

1982.12

萬華のゾーン

 

 あなたは、いま、”近ごろの若い者は”と思っておられましたね。たとえば、その人がいまお金を持っているかどうかについての体感は、この左手のこの腕のここにピッときます。自分でもほんとに不思議です。その人にあることは写り、ないことは流れて何も写らない

 

 

自然現象

 

 反応がおこり、体感がくる。あ、この人はこういう状態の人だな。今、こういう状態にあるのだな。服装や持ち物をみれば、まさにその人のその状態にふさわしいものを着用し所持している。その人の服装・持ち物で、すぐさまその人の本質的な状態が読みとれる。服装や持ち物で人を見る。

 服装や持ち物は、その人の「幸せ」度のたしかなあらわれである。素っ裸の人間を順々にとり巻いていく服装・持ち物・その他のものからはじまって、その人の日常生活に関係するものすべては、その人の現在の状態に即したものとしてある。たとえば、その人の赤いマフラーは、今のその人の内面的な状態をあらわす、あらわれとしての「自然現象」である。

 

縦縞 やってもやっても、ものにならない。独りよがりで、他人と背中あわせの状態、金銭的にも問題を抱えている。
横縞 いまが頂上で、あとは見通しが暗く、落ちるばかり。また、現状から抜け出せない。一般に、縞がはっきりしたもの、縞柄の大きいものほどこういうあらわれがきつい。
鼠色・灰色
・グレー
反感、反撥、反抗意識が強く、意地っ張り。ただし、やる気はあるが、その場合も、上の者の顔色をうかがっている。
茶色 物事が成就しない。やっても、結局は駄目。また、人と少々いがみ合っている。ただし、物事が現状で安定するというプラス面もある。
紺色 人にすがったり、人を当てにしている。
若葉色・鴬色 愛情面で相手に反感をもったり、うらめしく思っている。

   

 人びとの生のすべての局面にかかわる「自然現象」。現実の生きているその人のその一瞬の生、幸せそのものの在り方と深くかかわった、もっとも生なましい図柄・色彩。それは、その人の現実生活にとって重大な意味をもつ人の生そのものをとらえる「自然現象」

 熱心に耳を傾け、克明にメモしていた若い母親がいた。彼女は、こういう場合の、こういうことは、「あらわれ(験)」が良くない、いや、大変に危険な「あらわれ」である、といった「自然現象」を素直に実行していた。ある日、大阪市バスに子供を連れて乗っていて、たまたま危険な「自然現象」(第三者から見れば何の変哲もないちょっとしたこと)が出て、それに気がつき、すぐ次のバス停で下車、路線を変更して帰宅したが、彼女らが乗っていたバスは、天六の地下鉄工事現場での、あの史上空前の大爆発惨事(昭和45年4月8日)に出遭って、生地獄を現出した。難をまぬがれた「自然現象」とは、人の死活にまでかかわる重みをもっている。ある人がたまたまそういう現象の状態にあるということは、何でもないことのようであっても、すでに死相となって見えている場合がある。

 

 

病気と事情

 

 その人にあることは写り、ないことは流れて何も写らない

 (わたしの病気について、もっといろいろのことを教えて下さい。とくに、また病気が「循環」(再発)しないようにするには、どうすればよろしいでしょうか)

 貴男は、いつも物事にこだわり、ああでもない、こうでもないと迷ってばかりいる。そのくせ、非常に頑固で、勝手にこうと思い込んだら梃子でも動こうとしないし、また、自分にちょっとでも都合の悪いことには、すぐカーッと腹を立てる方です。どうか、せいぜいここへお見えになって下さい。(「補佐」をつとめる一女性から)

 病気そのものは、たしかに肉体の綻びであり、破れである。しかし、なぜそのような肉体の傷が発生し、病気になるのか、ということになると、それは、その人にふさわしいから、そうなるのだというより他にいいようがない。

 もっというと、その人の病気は、その人のもっとも内面にあるもの(性)からきているのである。それは、日常生活の上では、まず何よりもその人の感情・気持ちとして出てくる。その人が自分独特の感情のままに生活しているということは、その人の性むき出しに、性のまま生活しているということである。

 だからある者は何かというとすぐ人と争い、ある者はつねに人を妬ましく思い、ある者はいつも欲得づくの行動をとる。それが、その人の生の歪であり、そういう人が、そのままでいくと、やがて、肉体の綻び、破れとして顕在化し、病気を患うという「自然現象」となる。

 

肝疾患 いまいましいと思う心、不満。色々と迷う性質。
肝硬変 迷い、頑固さ。
胆嚢炎 いまいましい。口に出して言えない。意見が合わず、背中合わせ。冷淡。
腎疾患 内緒、秘密の心。金銭、異性へのこだわり。
糖尿病 自分本位で、ワンマン的な性格。認めてもらえない、淋しさ、自分を良く見せたい心。周囲に口やかましい人がいて、細かいことに気を遣う立場。

 

 人間、後天的なものは何ひとつない。すべては先天的である。それが、「新陳代謝」で現在のその人の身の上に出てきているのだ。(昭和55年5月4日)

 「人間」は、「先天的な条件付け」「遺伝的な条件付け」の刻印を受けたもの。

 

高血圧 カッとなる性格。一般的に循環器疾患にかかる人は、夢をもった性格で、夢の実現に努力をする。それを阻害しようとする条件があれば、それを徹底的に排除しようとする。それが出来ない時は、恨みとして心にしまい込み、日頃はおくびにも出さない。一方、そのことをくよくよ考えると、心臓疾患となって表れる。傾向としては攻撃的な性格で、非常に燃えやすい

 

 人の「事情」もまた、そのまま、その人にふさわしいものとして出てきている。

 (吹田市の宅造業者の夫婦) 赤字は当然です。これは奥様がやらかした赤字です。奥様、今日から店に出ることをおやめなさい。そして、家庭にいて、何でも旦那様のおっしゃる通り、誠心誠意、一生懸命つかえ、旦那様に喜ばれるいい奥様におなりなさい。仕事や店のことは、これっぽちも考えないでやって下さい。アノほうでも、うんと旦那様と楽しんで喜ばせて下さい(ニヤリ)。

 

 

倫理・道徳

 

 真心、明るく、正しく。

 

 

「霊感」・二つのポイント

 

 アラブ系の踊りを踊る者、インド風の踊りを披露する者、日本古来の宮廷風の舞。ペルシアの踊り、胡人。

 

 弥生中期のことである。敦賀湾の入口、武生よりの海岸に、五百人弱の集団が上陸した。この集団は三隊に分かれて大和を目指した。一派は湖西を経て約七ヵ月のちに、本隊は湖東を経て約四ヵ月のちに、いま一派は伊勢・志摩、熊野川、十津川を経て約一年半のちに、それぞれ大和入りを果たした。五条付近が最初の定住地であった。このグループは、北九州の遠賀川流域に展開していた集団であるが、それ以前には華南にいた。かれらは太陽神崇拝を行い、鉄器文化、とくに優れた刀剣技術をもっていた。その時は長老に率いられていたが、血統的な中心人物は、当時はまだ十歳にもならぬ幼女であり、十四、五歳になって巫女的統治者となった。それが台与でありのちに天照と呼ばれるに至ったリーダーであり、その甥が「記・紀」にいうところの「崇神」である。この集団の中心血脈の源流は遠くペルシアである。

 彼らは、前四世紀のアレキサンダーの東征ペルシアの滅亡(B.C.330年)などの動乱期に開始された、人びとの各地への移動の一分派として東漸してきた連中である。大和に入るまでに幾世紀にもわたる各地への移住と定住を繰り返してきた。だから、かれらはペルシアを中心としながらも、東ヨーロッパ、中近東の血や、インド、東南アジア、華南の諸地域の血をも内包した混血集団であった。

 いわゆる大和政権の成立過程を、物部、葛城、三輪、近江、河内といった諸王朝の配列においてとらえるという学説とはかなり違って、ここでは、とにかく、「初国知らしめしし「崇神」とそのグループを「大和政権」の血統の原点におく。

 

 

「幸せ」への談話と手記

 

 とにかく僕が今からいう感情を、お宅が離せたら、その腫瘍は三ヶ月で消えます。でも、そういうは恐らく直らないと思います。たぶん手術が必要となると思いますが、その手術には本当に時期があります。まず体質を変えなさい。僕が関西に来た時には、どんな時でも、僕のあとを追いかけて来て下さい。貴女にはそれだけのものがあるのですから、僕の身体を利用して下さい。体質が変わった時に必ず喜ぶ結果が出ますよ、それまでは手術することはなりません。

 そんなに悲観したら駄目ですよ。とってもとっても順調に恢復していますよ。もう少し主人に感謝をしなさい。まだまだ感謝が足りません。感謝、感謝。目は愛情、すなわち感謝です。この言葉を理解しなさい。あなたは自分の目を治すために、御主人の身内にお付き合いに行かれるのもよろしいでしょう。しかし、それはあくまでも形式だけの気持ちであって、そういう形式だけで行く時は、相手はドアをしめて迎えます。あなたが、本当に裸になって行く気持ちになるまで、行かないでよろしい。

 

 銭勘定の合わない商売は初めからせん方がよい。銭勘定とはどういうものかというと、人の感情である。人様とどれだけ心を合わせて行くか、感情を合わせて行くか、その感情の合ったところで、即ち銭勘定も合ってくる

 独立して商売して宜しいですよ。終戦のドサクサの何もない時に旗を揚げた連中が今日の社会を築き、生き残っている。最悪の時に、自分を維持出来る人間は絶対強い。

 今週は紳士物がよいですよ。何日と何日。

 自分でやったら、やっただけの結果が出る。ボーナス、0.3ヶ月。

 君、今何いった。口惜しいですか。君は、ここは経営者に味方するところだとはっきり言いましたね。じゃあ、口惜しかったら、今度ここへ来る時には経営者になって来なさい。そしたら、君に味方してあげますから。

 世の中を見ると、一番よく働いたら、当然、それだけの報酬を貰わなければいけない方もいる。・・・・人が寝ている時でも働き、夏だったら炎天下で、裸になって働いて、あれだけ自分の身を痛めて働く者もいる。しかし、その人たちの生活は、明日食べるものがあるかどうかも判らん、今晩寝るところがあるかどうかも判らん、という行き詰った生活の場合もある。

 ところが、ある人は朝十時、十一時頃に出社して、二、三時間、ポンポンと判を押して、あとはよろしく頼むといって、すっと帰ってしまうような生活している人もある。その違いというものを、真剣に考えてみなさい。どこが違うのですか。運が良いとか才能があるとかいうことも確かにあるでしょうが、そんなものではない。もっと違ったものがあるはずだ。

 君のそのボーナスが少ないという一番の原因は、やはりそこに喜びがない、感謝がない。唯もう、靴を売るだけの事で、ある時には、お客さんに強引に売りつけているかも分からないし、ある時には、ただ、自分は他の者に絶対に負けないということだけで売っているのじゃないか。靴を買って頂いた、お金を頂いた、自分が販売をさせて貰っている、ということにおいて、本当の自分の喜びというものを、なにも感じていない。そういう喜びと感謝の感情が本当に満たされていないから、君のボーナスも充たされていないんだ。あの「お答え」は私自身の主観的な「お答え」でなく、あくまでも客観的な「お答え」として出ているのだから、もう少し自分の生き方に対して喜びを持たなくてはいけない。

 靴屋として独立して行くためには、お客さんの身嗜み、好み、立場、懐具合や、すべての物を、見た瞬間に察知して、そういう状態でおすすめする時には、それが否応なしに「ピチッ」と合ってくる。さて、今の君だと、何足ぐらい靴を出したら、お客さんが買って下さるか、その足数を調べてみよう。まず十三足から十五足は出さないと売れない。だけど、それでは、買ってくれてるのでなく、義理で、「これだけ出しているんやから、やむを得ず買わんと仕方がない」という売り方しか君はしていないのだ。だから、お客さんは二度と来てくれない。あそこへ行くと押しつけられるとね。それではお客の本当の感情というものを満たしていないのだ、君は。

 三足~四足ぐらいの靴を出した時点で、お客さんが喜んでくれ、買ってくれるような自分になっていなければ、とても独立することは出来ない。今の君はあくまでも店員でしかない。だから、いま私がいったような人間になるために努力しなさい。そういうことが出来た時にちゃんとこちらから言葉をかけてあげましょう。また、東京の銀座であれ、どこであれ、一流の店員として通用出来るものになっておれば、僕はどこでも紹介してあげる。今はそういうところで通用する貴方でない。

 独立しなさい。

 それは当然だろうな。君は親に捨てられているという条件をもっている。社長というのは親に等しいものだ。君には親に捨てられる「体質」がある。その体質を「消滅」していかなかったら、つまり変えていかなかったら、当然、社会でも同じ事が起こる。君は、やはりバッチリ親に捨てられている。だから、そういう事情を二度と繰り返さないためには、今がよい機会だから、捨てられたという恨み、つらみから自分の心をはずして行かなければいけない。

 結構ですよ。僕から見て、君を自分の子供と思うかどうかは僕の自由だよ

 その店を辞めてはいけない。3~4年したら、今のその店から別のところへ変われるように努力しなさい。9月30日でその店を引き上げて変わりなさい。それから探しなさい。

 よろしい。

 

 一年ほどかかりますから、気長にいらっしゃい。

 おしっこが出ないのは、男の人に対していまいましい感情を持っているからですよ。

 

 私の体を使って癒(なお)して下さい。わたしには疎かにすべき一日、一時間もない。驕って止まればそれまで、前進あるのみ

 

 

            八島義郎

 

 

 
     
     
     
 
     
     








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